文化ボイコットとは何か|南アフリカで演奏したスターはなぜ批判されたのか

1989年にロンドンの南アフリカ・ハウス前で行われた反アパルトヘイト抗議

1980年代、クイーン、フランク・シナトラ、シャーリー・バッシー、ロッド・スチュワートなどのスターが、南アフリカや高級リゾートのサン・シティで公演し、反アパルトヘイト運動から批判を受けました。

批判は観客の人種構成を超え、海外の有名人による公演がアパルトヘイト体制下の国を通常の文化交流相手に見せ、国際的な孤立を弱める点へ向けられました。

こうした交流を断つ運動が「文化ボイコット」です。音楽家だけでなく、俳優、劇作家、映画関係者、作家、大学、学術団体まで対象となりました。

1989年にロンドンの南アフリカ・ハウス前で行われた反アパルトヘイト抗議
ロンドンの南アフリカ・ハウス前で行われた反アパルトヘイト抗議、1989年。撮影:rahuldlucca/Wikimedia Commons/CC BY 2.0。

文化ボイコットとは何か

文化ボイコットは、差別や抑圧を続ける国家・制度に対し、公演、上映、出版、演劇、展覧会、学術交流などを停止して圧力をかける運動です。

南アフリカに対する文化ボイコットでは、海外の芸術家や文化機関に次の行動が求められました。

  • 南アフリカで公演しない
  • 南アフリカの政府・公的機関と文化事業を行わない
  • 人種隔離された会場に作品や出演者を提供しない
  • 大学や研究機関との公式交流を停止する
  • 映画、演劇、テレビ番組などをアパルトヘイト体制の宣伝に利用させない

狙いは、芸術作品そのものを否定することではなく、文化交流が体制の正当性や国際的な信用を支えるのを防ぐことでした。

文化ボイコットは他の制裁と何が違ったのか

反アパルトヘイト運動では、複数の手段が併用されました。

手段主な対象具体例
経済制裁貿易、融資、投資、企業活動輸入規制、新規投資の停止、企業撤退
消費者ボイコット南アフリカ産の商品果物、ワインなどを買わない運動
スポーツ・ボイコット代表チーム、選手、大会ラグビー、クリケット、五輪からの排除
文化ボイコット公演、映画、演劇、出版、放送音楽家の公演拒否、作品提供の停止
学術ボイコット大学、研究者、学会大学間交流や会議参加の停止

経済制裁は資金や物資の流れを制限します。スポーツと文化のボイコットは、南アフリカを国際社会の一員として扱わない姿勢を目に見える形にしました。

有名な歌手やスポーツ選手が訪問を断れば、政治に関心が薄い人にもアパルトヘイト問題が伝わります。一方、南アフリカで公演すれば、施設側や政府は「海外の一流アーティストも来ている」と宣伝できました。

1989年のロンドンでボイコット・アパルトヘイトを訴えた啓発バス
「Boycott Apartheid」を掲げるロンドンの啓発バス、1989年。撮影:rahuldlucca/Wikimedia Commons/CC BY 2.0。

文化ボイコットはいつ始まったのか

南アフリカへの文化的な拒否は1960年代から組織化され、1980年代に国際的な圧力として拡大しました。

劇作家と俳優が先に動いた

1963年、イギリスとアメリカの劇作家48人が、人種別に分けられた観客の前で自作を上演させないという宣言に署名しました。サミュエル・ベケットも賛同者の一人です。

英国の俳優組合Equityも、会員が南アフリカで出演する場合、人種を限定した会場だけで演じることを認めない方針を取りました。

1964年には俳優マーロン・ブランドが、映画監督、俳優、制作者に対し、南アフリカの人種別観客を対象とする映画上映を拒むよう訴えました。

大学や研究者にも広がった

1965年、英国では南アフリカへの学術ボイコットが提起され、509人の研究者が誓約に署名しました。

大学は研究や教育の場ですが、アパルトヘイト下では高等教育も人種別に組織されていました。大学間の公式交流を続ければ、差別的な教育制度を通常の制度として扱うことになります。

このため、文化ボイコットと学術ボイコットは同じ国際的孤立政策の一部として進みました。

国連は文化ボイコットをどう位置づけたのか

1980年12月16日、国連総会は決議35/206 E「南アフリカに対する文化、学術その他のボイコット」を採択しました。

決議は各国に、南アフリカとの文化、学術、スポーツなどの交流を防ぐ措置を求めました。作家、芸術家、音楽家などにも南アフリカをボイコットするよう呼びかけ、大学や文化機関には関係の停止を促しました。

ニューヨークにある国連総会議場
国連総会議場。撮影:Patrick Gruban、加工:Pine/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.0。

この決議は政治的な要請で、全世界の個人に直接刑罰を科す仕組みとは異なります。各国の労働組合、自治体、大学、文化団体、市民運動が、国連の呼びかけを具体的な行動へ変えました。

英国では、反アパルトヘイト運動の地方組織が公演会場でピケを張り、自治体が施設貸出を検討し、芸能関係の労働組合が会員へ方針を示しました。文化ボイコットは国連だけで実施した制裁ではなく、国際機関と市民社会が連動した運動でした。

国連の「出演者登録簿」とは何だったのか

国連反アパルトヘイト特別委員会と国連反アパルトヘイト・センターは、南アフリカで公演した芸能人や俳優などの登録簿を作成しました。

国連デジタルライブラリーには、1983年、1984年、1986年、1988年版が残っています。1984年版は16ページ、1988年版は21ページあり、更新を重ねながら公演者を記録していました。

登録簿には、次の役割がありました。

  • 南アフリカ公演の事実を可視化する
  • 音楽業界や文化機関へ文化ボイコットを周知する
  • 今後の出演依頼を断るよう本人に働きかける
  • 観客や自治体が公演者の行動を判断する材料にする

「ブラックリスト」という表現だけで捉えると、仕組みを見誤ります。登録は刑事処分ではなく、文化ボイコットを実効性のある社会的圧力に変える手段でした。

その一方、実名を公表して公演先で抗議する方法は、芸術活動への過度な圧力だという反発も招きました。文化ボイコットは、国家への制裁と個人の表現活動の境界をめぐる論争を伴いました。

なぜサン・シティ公演も批判されたのか

サン・シティは、南アフリカ政府が「独立国」としたホームランド、ボプタツワナに建設された高級リゾートです。

施設側は、サン・シティは南アフリカ国外にあり、観客も人種混合だと説明できました。しかし、ボプタツワナの独立は国際的に承認されず、反アパルトヘイト運動はホームランド政策そのものを人種隔離の道具と見ていました。

反アパルトヘイト運動側は、次の説明も文化ボイコットを回避する理由として退けました。

  • 南アフリカではなくボプタツワナで公演した
  • 黒人を含む観客の前で演奏した
  • 出演料の一部を慈善事業へ寄付した
  • 音楽と政治は別だと考えた

公演会場の一夜だけが人種混合でも、黒人多数派が参政権を奪われ、居住や移動を制限された体制は続いていました。反アパルトヘイト運動が問題にしたのは、公演の形式より、その公演が置かれた政治制度です。

南アフリカで公演したスターたち

フランク・シナトラとサン・シティの大型公演

サン・シティは国際的な知名度を高めるため、高額な出演料で海外スターを招きました。

South African History Onlineによると、フランク・シナトラは1981年に9回の公演を行い、最大の会場がサン・シティでした。同年、サン・シティの大型会場スーパーボウルがシナトラの公演で開場しました。

海外スターの出演は、施設の格と安全性を宣伝する材料となりました。反アパルトヘイト側は、出演者が政治的支持を表明していなくても、結果としてホームランド政策の象徴的施設へ信用を与えると批判しました。

シャーリー・バッシーへの公演後の働きかけ

シャーリー・バッシーは1981年にサン・シティで公演しました。

翌1982年、ウェールズの反アパルトヘイト運動は、カーディフで行われたバッシーの公演に合わせ、アパルトヘイトへ反対する意思を示すよう求めました。

運動は公演者の永久排除よりも、過去に出演した人物へ今後は戻らないと表明させる働きかけを重視しました。英国の反アパルトヘイト運動は、バッシーやトム・ジョーンズらが再訪しないと誓約するよう説得したと記録しています。

クイーンのサン・シティ公演

クイーンの公式ライブ記録によると、同バンドは1984年10月、サン・シティのスーパーボウルで9公演を行いました。

1984年にフランクフルトで公演するクイーンのフレディ・マーキュリー
クイーンのフレディ・マーキュリー、フランクフルト公演、1984年。撮影:Thomas Steffan/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。※サン・シティ公演の写真ではありません。

公式記録は、この公演が論争を招いたこと、バンド側が「政治的なバンドではなく、聴きたい人のために演奏した」「観客は人種混合だった」と説明したことを記しています。

反アパルトヘイト側は、観客に黒人が含まれていたかではなく、サン・シティで公演すること自体を問題にしました。クイーンは英国の音楽家組合から処分を受け、国際的な批判にさらされました。

掲載画像の撮影地は1984年のフランクフルトです。サン・シティ公演の記録ではなく、同じ年のバンドの姿を示す代表写真として使用しています。

公演を拒否することは何を変えたのか

文化ボイコットによって、南アフリカでの公演は通常の海外ツアーではなく、政治的な判断を伴う仕事になりました。

出演を受ければ、公演後に労働組合、自治体、観客、市民団体から説明を求められます。出演を断れば、南アフリカの施設は海外スターを宣伝に利用しにくくなります。

1985年には、スティーヴン・ヴァン・ザントらがArtists United Against Apartheidを結成し、『Sun City』を発表しました。参加者はサン・シティで演奏しないと共同で宣言し、出演拒否を個人の判断から音楽業界の運動へ広げました。

文化ボイコットの力は、すべての公演を物理的に止めることではなく、出演に評判上の費用を生じさせた点にあります。高額な報酬だけで判断できる仕事ではなくなりました。

文化ボイコットは音楽だけの運動ではなかった

文化ボイコットには、劇作家、俳優、映画関係者、作家、研究者、大学、放送関係者も参加しました。

1980年にオランダで反アパルトヘイトを訴えた作家グループの記者会見
オランダの「アパルトヘイトに反対する作家」グループによる記者会見・抗議、1980年。撮影:Rob C. Croes/Anefo・Nationaal Archief/Wikimedia Commons/CC BY 4.0。

作品の上演許可を出さない、差別された観客を除外する会場では演じない、学術会議に参加しない、大学間協定を停止するといった方法が取られました。

この広がりによって、アパルトヘイトは外交や貿易だけの問題ではなく、日常的な文化消費や教育機関の選択に関わる問題になりました。

同時に、「南アフリカ出身の芸術家を一律に排除すれば、アパルトヘイトに反対する黒人芸術家まで孤立させる」という問題も生じました。

英国のAnti-Apartheid Movementは1982年、南アフリカで反アパルトヘイト演劇、音楽、詩が成長し、国外公演も始まった状況を受け、方針を調整しました。南アフリカから来た公演すべてを同じように抗議の対象とせず、アパルトヘイトに反対する作品は組織的抗議の対象から外す考えを示しました。

「芸術と政治は別」という反論

南アフリカで公演した音楽家の多くは、自らをアパルトヘイト支持者とは位置づけず、音楽と政治の分離を主張しました。

主な反論は次のようなものでした。

  • 音楽は政治を超えて人を結ぶ
  • 人種混合の観客へ演奏することには意味がある
  • 現地の観客や音楽家を孤立させるべきではない
  • 慈善寄付によって地域へ利益を還元できる
  • 芸術家個人に外交政策の責任を負わせるべきではない

反アパルトヘイト側は、文化活動の自由そのものより、自由な交流が成立する政治的条件を問題にしました。黒人多数派が自由な移動、居住、政治参加を奪われた状態で、海外スターだけが高額な報酬を受けて出入りすることは対等な文化交流ではない、という立場です。

この対立は、1986年のポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』をめぐってさらに複雑になりました。サイモンは南アフリカで黒人音楽家と録音し、現地の音楽を世界へ紹介したと説明しました。反対側は、録音目的でも文化ボイコットを破ったと批判しました。

公演して利益を得る行為と、抑圧された音楽家と協働する行為を同じ基準で扱えるのか。この論争は、文化ボイコットの原則と例外をめぐる代表的な事例となりました。

文化ボイコットにはどのような成果と限界があったのか

成果

文化ボイコットには、次の効果がありました。

  • アパルトヘイト問題を音楽・映画・演劇の観客へ広げた
  • 南アフリカ公演を社会的に説明が必要な行動へ変えた
  • サン・シティなどが海外スターを体制の正常性の演出に使うことを難しくした
  • 公演拒否、誓約、抗議、教育活動という参加方法を市民へ示した
  • 経済制裁やスポーツ・ボイコットとともに南アフリカの孤立を可視化した

英国では1980年代、反アパルトヘイト運動が学生、労働組合、教会、自治体、政党などを含む大規模な国際連帯運動へ成長しました。文化人の参加は、制度問題を広い層へ伝える役割を担いました。

限界

アパルトヘイト体制の終結は、文化ボイコットを含む複数の要因が重なった結果です。

南アフリカ国内の抵抗運動、労働争議、国際的な経済制裁、投資撤退、軍事・外交環境、冷戦終結、政府と解放運動の交渉などが重なりました。

また、文化ボイコットには次の問題もありました。

  • 個々の芸術家に制裁の責任を集中させやすい
  • 反アパルトヘイト側の南アフリカ人芸術家まで孤立させる可能性がある
  • 公演、録音、共同制作、研究交流を同じ基準で扱いにくい
  • 誰が例外を判断するのかが不明確になりやすい
  • 実名公表や抗議が表現活動への圧力になる場合がある

運動は、単純な全面禁止から、アパルトヘイトを支える交流と、抵抗運動に属する文化活動を区別する方向へ調整を迫られました。

よくある質問

文化ボイコットは国連による強制的な法律だったのですか

国連総会決議は国際的な政治的要請で、個々の芸術家へ世界共通の刑罰を直接科す法律とは異なります。各国の組合、文化団体、自治体、市民運動などが、公演拒否、施設利用、抗議、誓約といった形で実施しました。

南アフリカで公演しただけでアパルトヘイト支持者とされたのですか

公演者の内心と、公演が体制にもたらす効果は分けて考える必要があります。多くの出演者は政治的支持を否定しました。反アパルトヘイト側は、本人の意図にかかわらず、海外スターの出演が南アフリカやサン・シティの国際的信用を高めると批判しました。

人種混合の観客なら公演してよかったのですか

初期には、人種別観客の前で演じないという方針もありました。その後、運動は公演会場だけでなく、南アフリカとの文化交流全体を問題とする方向へ強まりました。サン・シティ側が混合観客を強調しても、ホームランド制度を支える施設である以上、ボイコット対象だと判断されました。

南アフリカ人の芸術家も海外公演を拒否されたのですか

一律に扱う方針は、反アパルトヘイトの文化活動まで妨げる問題を生みました。英国のAnti-Apartheid Movementは、アパルトヘイトへの抵抗を明確に示す南アフリカの公演について、組織的な抗議対象から外す方針を示しました。

このシリーズの記事

音楽による寄付、抗議歌、文化ボイコット、反人種差別運動を、8本の記事で解説しています。

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  3. We Are the WorldとSun Cityは何が違ったのか|寄付と抗議に分かれた1985年
  4. 『サン・シティ』とは何だったのか|スターたちがアパルトヘイトに挑んだ1985年
  5. ポール・サイモン『グレイスランド』は文化交流かボイコット破りか
  6. 日本にも反アパルトヘイト運動があった|「名誉白人」と南アフリカをめぐる日本
  7. 文化ボイコットとは何か|南アフリカで演奏したスターはなぜ批判されたのか 👈現在の記事
  8. ロック・アゲインスト・レイシズムとは|英国のパンクとレゲエが極右に対抗した音楽運動

まとめ

文化ボイコットは、南アフリカの芸術や人々を嫌う運動ではなく、アパルトヘイト体制を通常の国家として扱わないための国際的な圧力でした。

公演、上映、出版、学術交流は、一見すると政治から離れた活動です。しかし、海外スターや有力大学との交流は、南アフリカ政府やサン・シティに国際的な信用を与える効果を持ちました。

国連は1980年に文化・学術・スポーツ交流の停止を呼びかけ、1983年以降は南アフリカで公演した芸能人の登録簿を公表しました。市民団体、労働組合、自治体、大学は、公演拒否や抗議を通じてこの方針を具体化しました。

一方、反アパルトヘイトの南アフリカ人芸術家まで孤立させる危険や、個人への過度な圧力という問題もありました。文化ボイコットは、芸術と政治を単純に分けられないことを示すと同時に、文化交流を止める際の原則と例外を問い続けた運動でした。

参考文献

1. United Nations General Assembly, “Cultural, academic and other boycotts of South Africa,” A/RES/35/206[E], 16 December 1980

2. United Nations Centre against Apartheid, “Register of entertainers, actors and others who have performed in apartheid South Africa,” October 1983

3. United Nations Centre against Apartheid and United Nations Special Committee against Apartheid, “Register of entertainers, actors and others who performed in apartheid South Africa,” 1984

4. United Nations Centre against Apartheid, “Register of entertainers, actors and others who have performed in apartheid South Africa,” August 1988

5. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Cultural boycott”

6. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “The Anti-Apartheid Movement in the 1980s”

7. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “‘Support the cultural boycott!’”

8. Anti-Apartheid Movement Archives Committee, “Picket of Shirley Bassey concert, Cardiff”

9. South African History Online, “South Africa’s Academic and Cultural Boycott”

10. South African History Online, “Rustenburg the Segregated City”

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12. The Musicians’ Union: A History, “1981–1990”

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15. Wikimedia Commons, “Boycott Apartheid Bus, London, UK. 1989.jpg”

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17. Wikimedia Commons, “Queen 1984 0005.jpg”

18. Wikimedia Commons, “WritersAgainstApartheidNL1980.jpg”