日本とアパルトヘイトの関係には、二つの相反する面がありました。
日本政府は人種隔離政策に反対すると表明し、1980年代には段階的な規制を導入しました。日本国内でも、署名、デモ、映画上映、翻訳、商品ボイコットなどの反アパルトヘイト運動が続きました。
一方、南アフリカに駐在した日本人は「名誉白人」と呼ばれ、日本企業との貿易も拡大しました。1987年には、日本が南アフリカ最大の貿易相手国になったと報じられ、国連から名指しで批判されました。

「名誉白人」とは何だったのか
正式な人種区分ではなく、例外的待遇を表す呼び名
アパルトヘイト下の南アフリカでは、白人、黒人、カラード、インド人などの人種区分が、居住、教育、就業、移動、公共施設の利用に結びつけられていました。
日本人は白人として分類されず、主に企業から派遣された日本人駐在員と家族には、白人居住区での居住や、白人向けのホテル、飲食店、学校、病院などの利用が認められました。この例外的な位置を表す言葉として、「名誉白人」が使われるようになりました。
社会学者の山本めゆは、アパルトヘイト期に南アフリカで暮らした日本人は最大でも約800人で、その多くが企業駐在員だったと整理しています。日本人が白人居住区に住むことを許された一方、制度上の人種区分と実際の扱いには曖昧さが残りました。
「名誉白人」は、すべての日本人を法律上の白人へ変更する正式な身分名ではなく、政府機関、自治体、施設、時期によって異なる例外的待遇を説明する社会的・政治的な呼称として定着しました。
なぜ日本人だけに例外が設けられたのか
背景には経済関係がありました。
日本の高度経済成長に伴い、南アフリカとの貿易が拡大しました。日本は鉄鉱石、石炭、金属資源などを輸入し、自動車、機械、工業製品などを輸出しました。商社や製造業の駐在員が現地で活動するには、白人向けの住宅、ホテル、商談施設を使える環境が必要でした。
南アフリカ政府にとって、日本との取引は重要でした。しかし、アパルトヘイトの人種分類をそのまま適用すると、日本人企業関係者を白人向け施設から排除することになります。経済的利益と人種隔離制度の矛盾を処理するため、実務上の例外が積み重ねられました。
日本人の位置は、南アフリカ政府の都合によって認められた不安定な例外でした。同じアジア系住民でも、中国系やインド系の住民は長期間にわたり差別的な規制を受けました。
在留日本人はアパルトヘイトをどう経験したのか
企業駐在員と家族は、白人向けの住宅地や生活圏の中で暮らすことが多く、黒人住民の居住地域や日常生活から距離を置く環境にありました。
そのため、制度の不合理さに気づきながらも、会社と家庭を中心とした生活の中で深く関わらずに過ごした人がいました。例外的待遇に違和感を持った人や、反アパルトヘイト活動に関わった人もいました。
重要なのは、日本人が「差別されなかった」という事実だけを見るのではなく、その快適さが黒人多数派を排除した制度の上に成立していた点です。「名誉白人」という呼称は、日本人がアパルトヘイトから受けた利益と、制度への距離の取り方を問う言葉になりました。
日本と南アフリカの貿易はなぜ拡大したのか
資源輸入と工業製品輸出が結びついた
南アフリカは、金、石炭、鉄鉱石、クロム、マンガン、白金族金属などの資源を産出します。日本の製造業にとって、これらは鉄鋼、自動車、電子機器、化学工業などに必要な原料でした。
南アフリカ側は、日本から自動車、機械、電気製品などを輸入しました。日本企業が南アフリカへ直接投資することには規制がありましたが、貿易や第三国を通じた取引、現地企業との技術・販売関係は続きました。
欧米諸国で制裁や企業撤退が広がると、日本の貿易比重が相対的に高まりました。1987年の日本と南アフリカの貿易額は約43億ドルに達したと当時報じられ、日本は南アフリカ最大の貿易相手国になったとされました。
この状況は、日本政府にとって外交上の問題となりました。政府はアパルトヘイト反対を表明しながら、民間貿易の増加によって国際的な制裁効果を弱めていると批判されたためです。
国連は日本を名指しで批判した
1988年12月の国連総会決議は、南アフリカとの貿易を増やした国、とりわけ日本に対し、貿易関係を断つよう求めました。
日本政府は、すでに直接投資、武器輸出、核協力、スポーツ・文化交流などを制限していると説明しました。一方、包括的で強制的な経済制裁には慎重で、国連決議でも制裁内容によって賛成と棄権を分けました。
南アフリカとの貿易の中心は民間企業の輸出入でした。日本政府は、これをどこまで法的に止めるかという問題に対し、長く自主規制や業界への要請を中心に対応しました。
日本政府はアパルトヘイトにどう対応したのか
日本政府の方針は、アパルトヘイトへの反対と、包括的な経済断絶への慎重姿勢が併存するものでした。

1960年代、日本は国連で南アフリカへの制裁を求める決議の一部に反対または棄権しました。その後、国際的な非難が強まるにつれ、武器、直接投資、スポーツ、文化、観光、航空、特定品目の貿易などに規制を広げました。
1985年以降に規制を追加した
1985年10月、日本政府は新たな措置を発表しました。
- 軍、警察、アパルトヘイト実施機関に役立つコンピューターの輸出を認めない
- 企業にクルーガーランド金貨など南アフリカ金貨の輸入自粛を求める
- 南アフリカの黒人住民を対象とする教育・人材協力を拡大する
- 現地の日本企業に公正で平等な雇用慣行を求める
1986年には鉄鋼輸入の禁止、観光交流の制限、航空関係の措置なども追加されました。
1988年には、政府が経済界へ南アフリカとの貿易を慎重に行うよう要請しました。外務省は、その結果として同年の対南ア貿易が円・ドルの双方で前年を下回ったと説明しています。
アジア経済研究所の研究は、1980年代後半の追加規制を三段階に分けています。前半の措置には西側諸国との協調という面があり、1988年の貿易自粛には、アメリカの包括的反アパルトヘイト法に基づく対日制裁の可能性が影響したと分析しています。
日本は全面制裁に賛成していたのか
日本は、アパルトヘイトの廃止、ネルソン・マンデラの釈放、アフリカ民族会議などの合法化、黒人指導者との対話を南アフリカ政府へ求めました。
1980年代の国連総会では、反アパルトヘイト決議の一部に賛成する一方、石油禁輸や包括的制裁などを含む決議には棄権することがありました。
政府は、段階的な圧力と対話、南アフリカ周辺国への援助、黒人住民への教育・医療支援を組み合わせる方針を取りました。強制力のある全面的な貿易停止を求めた国や市民団体からは、対応が不十分だと批判されました。
日本にも反アパルトヘイト運動があった
1960年代から市民、労組、研究者が動いた
1963年、タンガニイカのモシで開かれたアジア・アフリカ人民連帯会議で、日本からの参加者がANC代表団から国内運動の組織化を求められました。翌1964年には、労働組合、政党、市民グループ、研究者、文化人らが署名、パンフレット発行、商品ボイコットに取り組みました。
1969年にはアフリカ行動委員会が結成され、ニュースレター、映画上映、デモ、企業調査、国際会議への参加などを続けました。東京だけでなく、大阪、京都、静岡などにも活動グループが生まれました。
運動は、南アフリカだけでなく、当時南アフリカが支配していたナミビア、ローデシア、ポルトガル植民地下の南部アフリカ解放運動とも結びついていました。
クルーガーランド金貨と南ア商品ボイコット
クルーガーランドは、南アフリカが発行する金貨です。金の輸出収入がアパルトヘイト体制を支えるとして、各国のボイコット運動で象徴的な商品になりました。

日本政府は1985年、企業に南アフリカ金貨の輸入自粛を求めました。市民団体は貴金属店や金融機関への働きかけを続け、金貨を購入しないよう訴えました。
1988年5月には、東京・銀座で南アフリカ商品のボイコット・キャンペーンが始まりました。同年6月までに、イトーヨーカ堂、ダイエー、ジャスコなどが南アフリカ商品の取り扱い中止を決めたと、日本の反アパルトヘイト運動年表は記録しています。
対象には金貨だけでなく、飲料、ワイン、果物、缶詰なども含まれました。消費者が店頭で原産国を確認し、企業へ販売停止を求める運動でした。
映画、翻訳、演劇も運動の手段になった
南アフリカの歴史を伝える映画の上映、黒人作家や活動家の著作の翻訳、詩や小説の紹介、音楽会、演劇公演、学校での学習会が行われました。
日本反アパルトヘイト女性委員会は、南アフリカの女性と子どもの状況を扱う国連資料を翻訳し、冊子や通信を発行しました。南アフリカの女性活動家や作家を日本へ招き、人種差別と女性差別の両方を議論しました。
こうした活動は、遠い国の制度を日本の消費、企業活動、教育、文化と結びつけました。「日本人は名誉白人だから無関係ではない」という問題提起も、市民運動の重要な論点になりました。
政府とANCの関係はどう変わったのか
1987年4月、ANC議長オリバー・タンボが日本政府の招待で来日しました。タンボは中曽根康弘首相、倉成正外相らと会談しました。

ANCは当時、南アフリカ政府によって非合法化され、幹部の多くが国外で活動していました。日本政府がANC最高指導者を招き、首相が会談したことは、日本と南アフリカ解放運動の関係における転換点でした。
1988年5月にはANC東京事務所が開設されました。日本の市民運動、労働運動などの支援を受け、南アフリカの民主化について情報を発信し、政府、政党、企業、市民団体との関係を築きました。
日本政府は1987年度から、アパルトヘイトの被害を受けた黒人住民の医療・教育事業へ40万ドルを拠出しました。南アフリカ周辺国への経済協力も拡大しました。
対南ア貿易が拡大する一方で、ANCとの公式接触と黒人住民への支援も進んだ点に、日本の政策の二重性が表れています。
マンデラ来日とアパルトヘイト廃止への転換
ネルソン・マンデラは1990年2月、27年余りの獄中生活を終えて釈放されました。その後、アパルトヘイト廃止への支援を求めて各国を訪問しました。

同年10月27日から11月1日まで、マンデラを含むANC代表団が日本政府の招待で来日しました。東京、大阪などで歓迎集会が開かれ、マンデラは国会でも演説しました。
日本の市民団体は、来日前から「マンデラ歓迎日本委員会」を組織し、コンサート、集会、募金活動などを進めました。政府間外交だけでなく、1960年代から運動を続けた市民、労働組合、宗教団体、研究者、文化人が来日を支えました。
1994年、南アフリカで全人種参加の総選挙が行われ、マンデラが大統領に就任しました。日本と南アフリカの関係は、アパルトヘイト期の制限された関係から、通常の外交・経済関係へ移りました。
日本はアパルトヘイトを支えたのか
日本企業との貿易は南アフリカ経済を支え、日本人駐在員は人種隔離制度が与えた例外的待遇を利用しました。1987年に日本が最大の貿易相手国になったことは、国際的な制裁を弱める要因として批判されました。
日本政府はアパルトヘイト廃止を要求し、直接投資、武器、文化・スポーツ交流、金貨、鉄鋼などに段階的な規制を加えました。しかし、包括的制裁には慎重で、民間貿易の抑制も遅れました。
国内では、市民、労組、宗教団体、研究者、文化人が数十年にわたり運動を続けました。企業調査、商品ボイコット、翻訳、映画、音楽、国際交流を通じて、政府と企業へ方針変更を求めました。
したがって、日本の関与は次の四つに分けて考える必要があります。
| 主体 | 主な関わり |
|---|---|
| 在留日本人 | 白人向け生活圏の利用、例外的待遇への適応・違和感・批判 |
| 日本企業 | 資源輸入、製品輸出、現地事業、規制への対応 |
| 日本政府 | アパルトヘイト反対表明、段階的規制、国連投票、ANCとの関係構築 |
| 市民運動 | デモ、署名、商品ボイコット、企業調査、翻訳、映画・演劇、国際連帯 |
「日本人」という一つの主語で全体を説明すると、政府と企業、市民と駐在員の違いが消えます。各主体の利益、判断、行動を分けることで、日本とアパルトヘイトの関係が具体的に見えてきます。
よくある質問
「名誉白人」は正式な法律上の身分だったのですか
「名誉白人」は、企業駐在員などに白人居住区や白人向け施設の利用を認める例外的運用を表す呼称で、日本人全員を法的に白人へ変更する統一的な正式身分とは異なります。
南アフリカにいた日本人は全員が優遇されたのですか
時期、地域、施設、本人の立場によって扱いは異なりました。主に企業駐在員と家族が白人向け生活圏を利用しましたが、人種分類上の曖昧さや差別的な対応も残りました。
日本政府は南アフリカへ経済制裁を行ったのですか
直接投資、武器、コンピューター、金貨、鉄鋼、スポーツ・文化交流、観光、航空などに段階的な規制を導入しました。一方、包括的な貿易断絶には慎重で、民間貿易は1980年代後半まで拡大しました。
日本の反アパルトヘイト運動はいつ始まったのですか
1960年代前半には組織的な活動が始まりました。1964年には署名、パンフレット、商品ボイコットが行われ、1969年にアフリカ行動委員会が結成されました。1980年代には全国各地の団体が活動し、南アフリカ商品のボイコットも広がりました。
ネルソン・マンデラは日本を訪れましたか
釈放後の1990年10月から11月にかけて、ANC代表団とともに来日しました。政府要人との会談、国会演説、東京や大阪での歓迎集会が行われました。
このシリーズの記事
音楽による寄付、抗議歌、文化ボイコット、反人種差別運動を、8本の記事で解説しています。
- 音楽は社会を変えられるのか|寄付・抗議歌・ボイコット・巨大コンサートの歴史
- 音楽はネルソン・マンデラ解放にどう関わったのか|「Free Nelson Mandela」から1988年コンサートまで
- We Are the WorldとSun Cityは何が違ったのか|寄付と抗議に分かれた1985年
- 『サン・シティ』とは何だったのか|スターたちがアパルトヘイトに挑んだ1985年
- ポール・サイモン『グレイスランド』は文化交流かボイコット破りか
- 日本にも反アパルトヘイト運動があった|「名誉白人」と南アフリカをめぐる日本 👈現在の記事
- 文化ボイコットとは何か|南アフリカで演奏したスターはなぜ批判されたのか
- ロック・アゲインスト・レイシズムとは|英国のパンクとレゲエが極右に対抗した音楽運動
まとめ
アパルトヘイト期の日本と南アフリカは、経済的に深く結びついていました。企業駐在員を中心とする日本人は、白人向けの住宅や施設を利用できる例外的待遇を受け、「名誉白人」と呼ばれました。
この呼称は正式な白人資格ではなく、南アフリカ政府が経済上の必要から人種隔離制度に設けた例外を表す言葉でした。その例外は、日本人を制度の外へ置いたのではなく、差別的な秩序から利益を受ける位置へ置きました。
日本政府はアパルトヘイト廃止を要求し、1980年代に規制と黒人住民への支援を強化しました。一方、対南ア貿易は拡大し、1987年には日本が最大の貿易相手国になったとされました。
日本国内では、1960年代から市民運動が続きました。署名、デモ、企業調査、商品ボイコット、翻訳、映画、演劇、音楽、国際交流が、政府と企業への圧力になりました。
日本の歴史には、例外的待遇を受けた人、取引を拡大した企業、慎重な制裁を選んだ政府、廃止を求めて動いた市民が同時に存在します。その重なりを追うことで、日本がアパルトヘイトと無関係ではなかったことが分かります。
参考文献
- 山本めゆ「人種概念としての『名誉白人』―南アフリカの日本人移民をめぐって」『ソシオロジ』56巻3号、2012年
- 国立国会図書館サーチ「人種概念としての『名誉白人』―南アフリカの日本人移民をめぐって」
- 牧野久美子「1980年代後半の日本の対南アフリカ政策―追加規制の導入過程の検討―」『アジア経済』65巻3号、2024年
- 外務省「南アフリカ共和国のアパルトヘイト問題に関する安倍外務大臣談話」1985年10月9日
- Ministry of Foreign Affairs of Japan, Diplomatic Bluebook 1986, “Promoting Relations with Each Countries”
- Ministry of Foreign Affairs of Japan, Diplomatic Bluebook 1987, “Japan’s Major Diplomatic Activities”
- Ministry of Foreign Affairs of Japan, Diplomatic Bluebook 1987, “Political Issues”
- Ministry of Foreign Affairs of Japan, Diplomatic Bluebook 1988, “Trends in International Politics and Contributions to Peace”
- Ministry of Foreign Affairs of Japan, Diplomatic Bluebook 1989, “Africa”
- Ministry of Foreign Affairs of Japan, Diplomatic Bluebook 1991, “Africa”
- United Nations General Assembly, “Policies of apartheid of the Government of South Africa,” A/RES/43/50[C], 5 December 1988
- アフリカ日本協議会「日本の反アパルトヘイト運動年表」
- アフリカ日本協議会「日本の反アパルトヘイト運動の歴史を振り返る」
- アフリカ日本協議会「日本反アパルトヘイト女性委員会の活動」
- The Washington Post, “Japan Is Urged to Cut Trade With South Africa,” 12 November 1988
- Wikimedia Commons, “Oliver Tambo, Bestanddeelnr 931-7461.jpg”
- Wikimedia Commons, “Flag at half-mast at South African Embassy in Tokyo.jpg”
- Wikimedia Commons, “Krugerrand 1oz 2017 obverse.jpg”
- Wikimedia Commons, “National Diet Building.jpg”
- Wikimedia Commons, “George H. W. Bush and Nelson Mandela.jpg”

