1978年4月30日、数万人の若者がロンドン中心部から東部のヴィクトリア・パークまで行進しました。
公園のステージに立ったのは、パンクバンドのザ・クラッシュ、黒人レゲエバンドのスティール・パルス、女性や人種的少数者を含むX-Ray Spex、同性愛者であることを公表したトム・ロビンソンらです。
この催しを組織したRock Against Racism(ロック・アゲインスト・レイシズム、RAR)は、音楽祭を運営しながら、極右政党ナショナル・フロントの伸長と人種差別的な暴力に対抗した政治・文化運動です。

RARは、パンクとレゲエを同じ舞台に置き、雑誌、ポスター、手紙、地域ライブ、デモを組み合わせました。音楽を聴くことと、極右に反対して街頭へ出ることを結びつけた運動です。
なぜ1970年代の英国で運動が必要だったのか
移民社会が形成される一方、人種差別も続いた
第二次世界大戦後の英国には、カリブ海地域、南アジア、アフリカなど旧植民地・英連邦地域から多くの人々が移住しました。
公共交通、医療、製造業などで働いた移民とその子どもたちは、英国社会を支え、音楽、食文化、言語、ファッションを変えていきました。レゲエ、スカ、カリプソ、ソウルなどの音楽も、英国の都市文化に定着しました。
一方、住宅、雇用、教育、警察対応などでは人種差別が続きました。黒人とアジア系住民への暴行、店舗や住宅への襲撃、街頭での嫌がらせも発生しました。
1976年には人種関係法が改正され、直接差別だけでなく間接差別も規制されました。それでも、日常の差別や極右運動は続きました。
ナショナル・フロントが移民排斥を掲げた
極右政党ナショナル・フロントは1967年、複数の極右団体の合流によって結成されました。
同党は、移民を住宅不足、失業、治安悪化の原因として扱い、非白人住民を国外へ移す「送還」を主張しました。大学のアーカイブ資料では、党員数は1967年の約1500人から、1972年には約1万7500人へ増えたとされています。

ナショナル・フロントは選挙へ候補者を立て、移民の多い地域で行進し、学校やサッカー場の周辺などでも若者へ宣伝しました。街頭行進は、地域住民に自分たちの力を見せる政治行動でした。
経済停滞と失業が広がる中で、移民を原因とする説明は一部の白人労働者や若者に受け入れられました。RARは、極右が若い音楽ファンへ接近する状況に対し、別の文化的な選択肢を作ろうとしました。
Rock Against Racismはどのように始まったのか
RARは1976年に生まれました。
直接のきっかけとして繰り返し語られるのが、著名なロック音楽家による人種差別的、または移民排斥的と受け取られた発言です。とりわけエリック・クラプトンのステージ上の発言と、デヴィッド・ボウイをめぐるファシズム支持と受け取られた報道が強い反発を招きました。
写真家、デザイナー、音楽ファン、政治活動家らは音楽誌へ手紙を送り、「ロックは人種差別に反対すべきだ」と呼びかけました。活動は手紙への返信と小規模なライブから始まりました。
発起人には、ロジャー・ハドル、レッド・ソーンダーズ、ジョー・レフォード、デヴィッド・ウィジェリー、ルース・グレゴリー、シド・シェルトンらがいました。参加者には社会主義者を含む複数の立場の人々がいました。
中心となった発想は単純でした。
黒人と白人の音楽家を同じ舞台に立たせ、極右が若者文化を支配するのを防ぐ。
この方針は、実際の英国音楽がすでにカリブ海、アメリカ、アフリカ、ヨーロッパの音楽から影響を受けているという認識にも基づいていました。「純粋な白人音楽」という極右の文化観に、音楽そのものの歴史で反論しました。
ライブだけでなく雑誌とデザインを使った
RARは全国各地でライブを企画しました。地域の若者が会場と出演者を探し、自分たちで反人種差別ライブを開く方式です。
『Temporary Hoarding』が運動の情報網になった
RARは新聞・ファンジン『Temporary Hoarding』を発行しました。
誌面には、音楽家へのインタビュー、極右と人種差別に関する記事、各地のライブ情報、読者の手紙、イベントの開催方法などが掲載されました。ウォーリック大学のModern Records Centreには、1977年から1979年までの第1号から第9号が保存されています。
インターネットのない時代、雑誌と郵便が全国の参加者をつなぎました。地元でライブを開きたい人はRARへ連絡し、ポスター、バッジ、ステッカー、運営の助言を受けました。
写真とポスターが「参加したい運動」を作った
写真家シド・シェルトンはRARの活動を記録し、ルース・グレゴリーらと誌面やポスターのデザインにも関わりました。
白黒写真、手書き文字、切り貼り、強い配色を使った視覚表現は、当時のパンクのDIY文化と結びつきました。反人種差別を、若者が自分の音楽、服装、街と結びつけられる文化にしました。
ライブで人を集め、雑誌で問題を説明し、ポスターで次の行動へ誘う一つの仕組みでした。
なぜパンクとレゲエを同じ舞台に置いたのか
RARを象徴するのが、パンクとレゲエの共演です。
英国の黒人音楽家と地域文化はRAR以前から存在し、人種差別、警察、貧困、植民地主義を歌っていました。
RARは、それまで異なる会場や聴衆に分かれがちだった音楽を共同の政治行動へつなげました。
レゲエは黒人英国人の現実を語った
スティール・パルスは、バーミンガムのハンズワースで1975年に結成されたレゲエバンドです。

メンバーは移民の子どもとして英国で育ち、警察による職務質問、人種差別的な暴力、教育や雇用の不平等を歌いました。1978年のデビューアルバム『Handsworth Revolution』は、黒人英国人の地域と政治を前面に出しました。
同年の曲『Ku Klux Klan』では、白人至上主義と人種的暴力を批判しました。ヴィクトリア・パークのRARカーニバルにも出演し、パンクの聴衆へ英国レゲエの政治性を伝えました。
Matumbi、Aswad、Misty in Rootsなどのレゲエバンドも、RARや反人種差別運動と関わりました。レゲエは運動の中心的な政治言語でした。
パンクは白人の若者を運動へ連れてきた
ザ・クラッシュは、失業、警察、階級、帝国主義、人種差別を題材にしました。

パンクの聴衆には、既存政治へ不満を持つ若者が多くいました。その怒りが極右へ向かう可能性も、反人種差別運動へ向かう可能性もありました。RARはライブを通じ、パンクの反抗を反ファシズムへ結びつけようとしました。
X-Ray Spexのポーリー・スタイリーンはソマリア系とスコットランド系の家族背景を持ち、女性、消費社会、身体、疎外を独自の視点で歌いました。トム・ロビンソン・バンドは、反人種差別と同性愛者の権利を支持しました。
RARのステージにも白人男性中心のロック文化は残りましたが、誰が英国の若者文化を代表するのかを争う場になりました。
Anti-Nazi Leagueとはどのような関係だったのか
Anti-Nazi League(反ナチ同盟、ANL)は1977年、ナショナル・フロントなどの極右勢力に対抗するため結成されました。
RARとANLは別組織で、密接に協力しました。
| 組織 | 主な活動 |
|---|---|
| Rock Against Racism | 音楽、雑誌、ポスター、地域ライブ、カーニバル |
| Anti-Nazi League | 選挙活動、街頭宣伝、デモ、極右集会への対抗、労組・政党との連携 |
ANLは極右候補の選挙区で宣伝し、ナショナル・フロントの政策と人脈を知らせました。RARは音楽を通じ、政治団体へ入りにくい若者を反ファシズム運動へ連れてきました。
両者の活動には、Socialist Workers Partyなど急進左派の活動家が大きく関わりました。同時に、労働組合員、学生、音楽家、地域団体、宗教者など、異なる立場の人々も参加しました。
街頭の反人種差別運動はRARだけではなかった
英国の反人種差別運動には、黒人・アジア系住民自身の地域運動も含まれます。
1977年のルイシャム
1977年8月13日、ナショナル・フロントはロンドン南東部ルイシャムで行進しました。地域には多くの黒人住民が暮らし、警察の「sus法」による職務質問や逮捕への反発がありました。
約500人の極右行進に対し、黒人活動家、地域住民、反ファシズム団体、左派活動家など数千人が抗議しました。警察との激しい衝突が起き、この出来事は「ルイシャムの戦い」と呼ばれます。
RARの音楽活動と同じ時期に、地域住民は街頭で極右の進出を阻止しようとしていました。音楽カーニバルは、こうした現実の対立を背景に持ちました。
ベンガル系住民とブリック・レーン
東ロンドンのブリック・レーン周辺では、ベンガル系住民への暴行と嫌がらせが続きました。
1978年5月4日、24歳の衣料労働者アルタブ・アリが、仕事帰りに人種差別的な襲撃を受けて殺害されました。事件はベンガル系住民と周辺地域を動かし、大規模な抗議行動につながりました。
住民は自警的な見回り、デモ、住宅・警察問題への交渉、極右の街頭販売への対抗を進めました。ウォーリック大学の資料には、1978年のブリック・レーンの抗議が地域のベンガル系住民によって主導されたことが記録されています。
黒人、ベンガル系、ユダヤ系などの地域団体には、それぞれ以前からの組織と経験がありました。
1978年ヴィクトリア・パーク・カーニバル
1978年4月30日、RARとANLはロンドンで大規模な「Carnival Against the Nazis」を開きました。
参加者はトラファルガー広場から東ロンドンのヴィクトリア・パークまで行進しました。Hackney Museumの収蔵資料は参加者を約8万人と記録していますが、資料によって推計は異なります。少なくとも数万人規模の行進と公演だったことは確認できます。

出演者には、ザ・クラッシュ、スティール・パルス、X-Ray Spex、トム・ロビンソン・バンド、パトリック・フィッツジェラルドらがいました。
この日は、次の行動が一つにつながりました。
- 街頭行進へ参加する
- 極右に反対する意思を示す
- 黒人と白人の音楽を同じ舞台で聞く
- ANLや地域団体の資料を受け取る
- 帰った後に地域ライブを企画する
公園の観客は、行進して会場へ到着したデモ参加者でもありました。
カーニバル後、運動は全国へ広がった
ヴィクトリア・パークの成功後、RARとANLは英国各地でカーニバルとライブを開きました。
マンチェスター、カーディフ、エディンバラ、リーズなどでも大規模な催しが行われました。地域の小規模ライブを含めると、RARは数百件のイベントを支援したとされています。
公演にはパンクとレゲエに加え、ソウル、ファンク、スカ、フォーク、実験音楽なども加わりました。地域の黒人バンドと白人バンドを同じ告知へ載せること自体が、分離されがちな音楽市場への介入でした。
1981年にはリーズのポッターニュートン・パークでNorthern Carnival Against Racismが開かれ、The Specialsらが出演しました。
RARの初期活動は1980年代初頭にいったん縮小しましたが、音楽を使う反人種差別運動の方法は、後のAnti-Nazi League再結成やLove Music Hate Racismなどへ引き継がれました。
RARはナショナル・フロントを倒したのか
1979年総選挙で、ナショナル・フロントの得票は期待を下回りました。RARとANLは、極右が若者や労働者の代表であるというイメージを崩すことに貢献しました。
同党の後退には、次の要因が重なりました。
- 黒人とアジア系住民の地域抵抗
- 労働組合と政党の反ファシズム活動
- ANLによる選挙・街頭運動
- ナショナル・フロント内部の対立
- 保守党による移民問題の取り込み
- 有権者の選択と選挙制度
極右政党の後退後も、人種差別は続きました。警察による過剰な職務質問、住宅と雇用の格差、黒人・アジア系住民への暴力は1980年代にも続きました。
1981年にはブリクストンなどで大規模な衝突が起きました。
RARと『Sun City』は何が違ったのか
RARと1985年の『Sun City』は、音楽で人種差別に対抗した点で共通します。
一方、対象と方法が異なります。
| 比較 | Rock Against Racism | Sun City |
|---|---|---|
| 主な対象 | 英国内の人種差別、極右、移民排斥 | 南アフリカのアパルトヘイトと文化ボイコット破り |
| 主な方法 | 地域ライブ、雑誌、デモ、カーニバル | レコード、映像、出演拒否宣言、教育資料 |
| 中心となる場所 | 英国各地のライブ会場と街頭 | 国際的な音楽産業とサン・シティ |
| 聴衆に求めた行動 | 地域で組織し、極右に対抗する | 南アフリカ公演を拒否し、制裁運動を支持する |
| 音楽的な連合 | パンクとレゲエを中心とする | ロック、ヒップホップ、ジャズ、レゲエなど |
RARは国内の若者文化を反ファシズムへ組織しました。『Sun City』は、国境を越えた音楽産業に公演拒否を求めました。
どちらも、既存の政治運動へ人を連れてくる文化的な入口として機能しました。
よくある質問
RARはバンドの名前ですか
1976年に始まった政治・文化運動で、ライブ、カーニバル、雑誌、ポスター、街頭行進などを組織しました。
ザ・クラッシュがRARを作ったのですか
RARは写真家、デザイナー、音楽ファン、政治活動家などの呼びかけで始まり、ザ・クラッシュは代表的な出演バンドとして参加しました。
RARとAnti-Nazi Leagueは同じ組織ですか
別組織です。RARは音楽と文化活動を中心とし、ANLは選挙、デモ、街頭宣伝などを中心としました。1978年の大規模カーニバルなどでは共同しました。
1978年のカーニバルには何人が参加しましたか
Hackney Museumの資料は約8万人と記録していますが、資料によって数字は異なります。少なくとも数万人がトラファルガー広場からヴィクトリア・パークへ行進した大規模な催しでした。
パンクとレゲエはRARによって初めて出会ったのですか
両ジャンルの交流や共通の聴衆はRAR以前にもありました。RARは、その交流を反人種差別と反ファシズムの明確な政治運動として全国的に組織しました。
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まとめ
Rock Against Racismは、1970年代英国の極右伸長と人種差別的暴力に対抗して生まれました。
運動は、パンクとレゲエを同じ舞台に置き、雑誌『Temporary Hoarding』、ポスター、郵便、地域ライブ、街頭行進を結びつけました。若者が音楽を楽しむことと、極右に反対することを同じ文化的選択にしました。
1978年のヴィクトリア・パーク・カーニバルには数万人が集まり、ザ・クラッシュ、スティール・パルス、X-Ray Spexらが出演しました。
黒人住民の警察への抗議、ベンガル系住民のブリック・レーンでの抵抗、労働組合、地域団体、Anti-Nazi Leagueなどが、それぞれの方法で極右に対抗しました。
RARは音楽ファンを地域運動へ結びつけ、反人種差別を若者文化の目に見える立場へ変えました。
参考文献
- Rock Against Racism, “History”
- University of Warwick, Modern Records Centre, “The National Front and the anti-fascist response in the 1970s”
- University of Warwick, Modern Records Centre, “Race, policing and the 1980s riots”
- Hackney Museum, “Rock Against Racism”
- Hackney Museum, “Carnival against the Nazis”
- Hackney Museum, “Paul Simonon at Rock Against Racism Concert”
- Hackney Museum, “Tom Robinson at Rock Against Racism, 1978”
- Hackney Museum, “X Ray Spex at Rock Against Racism”
- Victoria and Albert Museum, “Staying Power: Photographs of Black British Experience”
- British Library, “First exhibition to document 500 years of Black music in Britain”
- London Borough of Tower Hamlets, “Altab Ali and the Fight for Equality”
- London Borough of Tower Hamlets, “Altab Ali Park”
- Historic England, “Altab Ali Park, Tower Hamlets”
- Google Arts & Culture, “Steel Pulse’s Handsworth Reggae Revolution”
- Wikimedia Commons, “2 Police clash with demonstraters on Lewisham High Street.jpg”
- Wikimedia Commons, “1 The National Front march.jpg”
- Wikimedia Commons, “Mick Jones of the Clash, 1978.jpg”
- Wikimedia Commons, “SteelPulse14.jpg”
- Wikimedia Commons, “Victoria Park, London, August 2020 – 01.jpg”

