東郷坂の歴史|東郷平八郎邸と消えた東郷坂教会、東郷元帥記念公園

東京都千代田区三番町の東郷坂

千代田区三番町と四番町の境に近い一角に、東郷坂とうごうざかがあります。現在は住宅や学校、公共施設が並ぶ都心の坂ですが、明治から昭和前期にかけて、その周囲には東郷平八郎とうごう へいはちろうが53年間暮らした東郷邸と、ドイツ語圏のプロテスタント共同体が使った教会堂が向かい合っていました。

東京都千代田区三番町の東郷坂
現在の東郷坂。撮影:江戸村のとくぞう、2018年6月26日 / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

東郷がこの地に住み始めた1881年には、まだ「東郷坂」という名はありませんでした。教会堂が完成した1897年にも正式な坂名はなく、日露戦争後の1905年10月、隣に住む東郷にちなみ麹町区会の議決で命名されました。東郷が元帥府に列せられたのは1913年です。

関東大震災では初代教会堂が失われ、1927年に2代目教会堂が再建されました。1929年にはドイツ・ワルカー社製パイプオルガンが設置されます。東郷の死後、旧邸は顕彰の場となり、1929年開園の上六公園との統合を経て東郷元帥記念公園へ変わりました。1945年には旧東郷邸と教会堂が戦災で焼失します。

番町・麹町こうじまち区全体の古地図と地域史は、大正東京・麹町区を古地図で徹底解説|皇居・丸の内・霞が関・永田町で詳しく扱っています。

東郷坂は1905年に生まれた

現在の東郷坂とうごうざかは、東郷元帥記念公園の西側を通る坂です。千代田区の資料によれば、現在の名称が決まったのは明治38年(1905年)10月で、麹町区会の議決によって命名されました。周辺の連続する坂道は古く「法眼坂」と呼ばれていたとされます。

1905年は日本海海戦の年で、連合艦隊司令長官だった東郷平八郎とうごう へいはちろうの名が広く知られた時期でした。坂名はその東郷にちなみます。命名時の東郷は連合艦隊司令長官で、元帥府に列せられたのは8年後の1913年です。

坂の反対側にあった教会堂は、命名より8年前の1897年に完成していました。後に「東郷坂教会」と呼ばれる建物は、建設時にはまだ東郷坂という正式名称を持っていなかったことになります。

東郷平八郎が53年間暮らした東郷邸

東郷平八郎とうごう へいはちろうがこの地に住み始めたのは1881年です。千代田区は、1934年の死去まで53年間暮らしたとしています。当初の住所は麹町区上六番町で、東郷は周辺地を買い増しながら邸地を広げました。町名整理後、晩年の住所は三番町となります。

東郷が移り住んだ1881年は、日本海海戦の24年前でした。日清戦争、連合艦隊司令長官就任、日露戦争、日本海海戦、元帥就任を経て、この家は東郷の長い生活史と結びつく場所になりました。

1929年、東京市麹町区の東郷邸で撮影された東郷平八郎
東郷平八郎。1929年5月12日、東京市麹町区の東郷邸で斉藤喜一郎(斉藤写真館)が撮影。Wikimedia Commons(Public Domain)

この写真は1929年5月12日、東郷邸で斉藤喜一郎(斉藤写真館)が撮影したものです。1934年に東郷が死去すると、6月5日に国葬が行われ、国葬関係文書には午前8時30分に東郷侯爵邸から霊柩が出発し、日比谷公園の斎場へ向かったことが記されています。

1934年6月5日に行われた東郷平八郎の国葬
東郷平八郎の国葬、1934年6月5日。撮影者不詳 / Wikimedia Commons(Public Domain)

東郷の死後、邸宅は私邸から顕彰空間へと性格を変えていきます。

東郷坂教会の歴史は1885年のドイツ語会衆から始まる

東郷坂とうごうざかの教会史は、最初の教会堂が完成した1897年より前へさかのぼります。母体となった普及福音新教伝道会(Allgemeiner Evangelisch-Protestantischer Missionsverein、AEPM)は1884年にドイツ・ワイマールで設立され、翌1885年、スイス人牧師ヴィルフリート・シュピンナーが日本へ派遣されました。

シュピンナーは東京と横浜のドイツ語圏プロテスタントをまとめ、ドイツ語福音教会共同体を組織しました。現在の東京横浜独語福音教会も、その歴史を1885年から数えています。1887年には、シュピンナーから洗礼を受けた日本人キリスト者33人が普及福音教会を結成しました。

東郷坂の教会堂では、ドイツ語圏外国人の福音主義共同体と、日本人の普及福音教会・東郷坂会衆という二つの流れが同じ建物を使いました。相互に関係しながらも、組織の系譜は区別して考える必要があります。プロテスタントや他教派の基本的な位置づけは、キリスト教の教派・教団・教区とは?東京の教会を系統図でわかりやすく解説で整理しています。

1897年、現在の四番町側に初代教会堂が完成

初代教会堂の建築史で大きな役割を果たしたのが、ドイツ人建築家ヘルマン・ムテジウスです。ムテジウスはエンデ&ベックマン建築事務所の仕事に関わって来日し、1889年、シュピンナーから東京のドイツ福音教会の設計を依頼されました。

1913年に撮影された建築家ヘルマン・ムテジウス
建築家ヘルマン・ムテジウス、1913年。Nicola Perscheid撮影 / Wikimedia Commons(Public Domain)

初期計画には十字形平面、ゴシック系の意匠、塔、木造ヴォールト天井などが盛り込まれましたが、建設地、資金、日清戦争後の資材価格上昇などで計画は長期化しました。ムテジウスは1891年に日本を離れ、帰国後の修正・縮小を経て、現地ではルドルフ・レーマン、オスカー・ティーツェ、リヒャルト・ゼールらが計画を引き継ぎました。

1897年1月27日、当時の中六番町、現在の四番町側に教会堂が献堂されました。完成した教会はネオ・ゴシック様式で、赤レンガの外壁、石材、花崗岩の基礎、木造ヴォールト天井を備えていました。完成建物はムテジウスの初期案そのものではなく、規模縮小と現地での設計調整を経たものです。

日本人の東郷坂普及福音教会

日本人側の東郷坂とうごうざか会衆で長く中心を担ったのが赤司繁太郎です。東京横浜独語福音教会の歴史資料では、赤司が1909年から1946年まで東郷坂会衆を担当したと記されています。

赤司が主筆を務めた雑誌『生命の泉』の書誌には、1930年代後半に「普及福音教會機關」、1940年頃には「東郷坂普及福音教會機關」という表記が残ります。1920年代の再建期には日本人の東郷坂会衆が100人を超え、2代目教会堂の設備費にも拠出しました。

1923年の関東大震災で初代教会堂が焼失

1923年9月1日の関東大震災で、東郷坂とうごうざか沿いの初代教会堂は失われました。再建資金は日本とドイツで集められ、1927年に同じ東郷坂で2代目教会堂が献堂されます。

震災後の番町では都市空間も再編され、1929年7月には後の東郷元帥記念公園下段となる上六公園が開園しました。これは震災復興小学校と小公園を一体整備した52件の事業の一つです。制度の背景は、関東大震災後、東京はなぜ学校の隣に52の公園をつくったのか|復興小学校と復興小公園で詳しく解説しています。

1929年、2代目教会にワルカー社製パイプオルガン

1927年完成の2代目東郷坂とうごうざか教会には、1929年、ドイツのE.F.ワルカー社製パイプオルガンが設置されました。ヤマハの公式パイプオルガン史にも「東京麹町東郷坂独逸教会に、ワルカー社製オルガン設置」と記録されています。

当時の日本楽器製造は海外製パイプオルガンの修理・組立技術を蓄積しており、1928年には旧南葵音楽堂のオルガンの解体・修復・復元を担当、1932年には国産パイプオルガンを完成させました。東郷坂教会の設備は、日本のパイプオルガン技術史とも接点を持ちます。

1930年代、ドイツ語会衆はナチ体制の影響を受ける

1930年代の東郷坂とうごうざか教会は、ドイツ本国の政治変化の影響を受けました。現在の東京横浜独語福音教会の公式史は、1936年に東京と横浜のドイツ語会衆が統合された経緯を「zusammengefasst und ‘gleichgeschaltet’」と記しています。

Gleichschaltungは、ナチ政権が政治・社会・文化の諸組織を体制の方針へ組み込んだ「同質化」「統制」を指す用語です。1939年にはStiftung Togozaka Kirche(東郷坂教会財団)が教会の土地・建物・備品を所有する法的主体となり、同年9月1日に規則が日本側の宗教行政当局から認可されました。教会史では、ドイツ語会衆が当時のドイツ国家・教会政策の影響下に置かれた制度史として位置づけられます。

1934年、東郷の死と邸宅の記念空間化

東郷平八郎とうごう へいはちろうが1934年に死去すると、東郷邸保存を含む顕彰事業が進みました。斎藤実関係文書には同年8月の「東郷元帥記念事業に関する件」、発起人会資料、趣意書、会則、事業要綱などが残っています。

東郷元帥記念会が組織され、1937年11月には旧東郷邸と建物が東京市へ寄付され、1938年11月に旧邸部分が一般公開されました。隣接する上六公園とは別の成り立ちを持つ土地で、現在の公園は両者を段階的に統合して成立します。

東郷元帥記念公園は旧東郷邸と上六公園から生まれた

現在の東郷元帥記念公園とうごうげんすいきねんこうえんは、旧東郷邸と上六公園という異なる由来の土地を統合して成立しました。1929年7月、関東大震災後の帝都復興事業で現在の下段に上六公園が開園し、面積は2,728.23平方メートルでした。

一方、1937年に寄付された旧東郷邸は1938年に公開され、1941年1月、上六公園と旧東郷邸が正式に合併して「東郷元帥記念公園」となりました。同年には東側の隣接地1,377.09平方メートルも追加寄付されています。

公園には約8メートルの高低差があり、下段は旧上六公園、上段・中段側は主に旧東郷邸に由来します。2026年まで続いた改修でも、三段の地形と歴史的な地割の継承が重視されました。

ライオン像は東郷の死後に置かれた

東郷元帥記念公園に残るライオン像は、旧東郷平八郎とうごう へいはちろう邸に結びつく記念物です。千代田区の資料では、別府の有力者で東郷と親交があった甲斐大蔵が1934年に一対2体を制作したと整理されています。

旧東郷邸へ設置されたのは1940年5月で、東郷の死去から6年後でした。2体のうち1体は設置場所の都合で甲斐側へ戻され、もう1体が現在の公園に残りました。1945年5月25日の空襲で旧東郷邸が焼失した際、像も損傷しました。

公園内には「五十七貫目」と刻まれた力石もあり、千代田区指定の有形民俗文化財です。東郷家の遺品ではなく、公園内に伝わる別系統の文化財です。

1945年、東郷邸と東郷坂教会の建物が消えた

1945年5月25日の空襲で、旧東郷平八郎とうごう へいはちろう邸は土蔵1棟を残して全焼しました。1938年の一般公開後も残っていた住宅建築は、戦災で失われます。

坂の四番町側にあった2代目東郷坂とうごうざか教会も1945年の東京空襲で焼失しました。教会の公式史が記すのは1945年の焼失で、月日は示されていません。

戦後、教会の系譜は品川へ続いた

1945年に東郷坂とうごうざか教会堂が焼失した後、ドイツ語会衆の活動は大きく中断しました。戦時中には会衆の多くが箱根や軽井沢へ疎開し、1947年には日本に残っていたドイツ人の多くが占領当局によって送還されました。

1952年の講和後、ドイツ人が再び日本へ戻れるようになり、1953年にはドイツ東亜伝道会から牧師が派遣されて東京の会衆が再結集しました。東郷坂の旧教会用地は売却され、五反田・品川方面に新たな土地を取得。1959年5月10日、新しいKreuzkircheが献堂されました。

現在の東京横浜独語福音教会は、1885年に始まった共同体の歴史を継承しています。教会堂は東郷坂から姿を消しましたが、会衆の系譜は戦後の品川へ続きました。

戦後の東郷元帥記念公園

戦後の東郷元帥記念公園とうごうげんすいきねんこうえんは、1950年に東京都から千代田区へ移管されました。1965年には追加寄付地が公園として整備され、現在につながる範囲へ広がりました。

老朽化などを受けて進められた大規模改修工事は2026年3月に完了しました。上段広場の一部遊具は利用ルール策定後の2026年6月26日に利用を再開し、千代田区は同年7月に整備完了を案内しています。

改修では、旧上六公園と旧東郷邸に由来する地割、上段・中段・下段の三段地形、ライオン像など、歴史を読み取れる要素が継承されました。

東郷坂・東郷邸・教会・公園の年表

出来事
1881年東郷平八郎が上六番町の邸宅に住み始める
1884年ドイツで普及福音新教伝道会(AEPM)設立
1885年ヴィルフリート・シュピンナー来日。東京のドイツ語福音教会共同体が成立
1887年日本人キリスト者による普及福音教会が成立
1889年ムテジウスが東京のドイツ福音教会設計を依頼される
1897年1月27日現在の四番町側に初代教会堂が献堂
1905年10月麹町区会の議決で東郷坂と命名
1909年赤司繁太郎が日本人側の東郷坂会衆を担当し始める
1913年東郷平八郎が元帥府に列せられる
1923年9月1日関東大震災で初代教会堂が焼失
1927年2代目東郷坂教会堂が完成
1929年ワルカー社製パイプオルガン設置。上六公園も開園
1934年東郷平八郎死去・国葬。顕彰事業が進む
1936年東京・横浜のドイツ語会衆が統合
1937年旧東郷邸が東京市へ寄付される
1938年旧東郷邸部分を一般公開
1939年Stiftung Togozaka Kircheが教会財産の法的主体となる
1940年現在残るライオン像が旧東郷邸に設置
1941年1月上六公園と旧東郷邸を統合し、東郷元帥記念公園となる
1945年旧東郷邸と2代目東郷坂教会が戦災で焼失
1947年日本に残ったドイツ人の多くが送還される
1950年東郷元帥記念公園が東京都から千代田区へ移管
1953年東京のドイツ語会衆が再結集
1959年5月10日品川の新しいKreuzkircheが献堂
1965年東郷元帥記念公園の追加寄付地を整備
2026年3月東郷元帥記念公園の大規模改修工事が完了
2026年6月上段広場の一部遊具が利用再開

現在の東郷坂に残る歴史

現在の東郷坂とうごうざかには、1897年のネオ・ゴシック教会も、東郷平八郎とうごう へいはちろうが暮らした邸宅も残っていません。坂の名称は1905年から続き、旧東郷邸は上六公園との統合を経て東郷元帥記念公園となりました。

公園の三段地形には、1929年の震災復興小公園と旧東郷邸という異なる土地の来歴が重なっています。1940年に設置され戦災を受けたライオン像も現存します。四番町側の教会堂は失われましたが、1885年に始まったドイツ語会衆の系譜は現在の東京横浜独語福音教会へ続いています。

参考資料