東京の街を歩くと、大分県につながる歴史が意外なほど濃く残っています。中央区明石町では中津藩の屋敷が蘭学と慶應義塾の出発点になり、上野では大分で育った瀧廉太郎と大分出身の彫刻家・朝倉文夫が交差します。両国には宇佐出身の横綱・双葉山が興した相撲道場の名が残り、平河町には現在も大分県東京事務所と在京大分県人会があります。
江戸の藩邸から近代の学校・芸術・相撲、そして現代の県人ネットワークへ。東京に残る「大分」を時代順にたどります。
国東から江戸へ――ペトロ岐部と伝馬町牢屋敷
東京でたどれる大分ゆかりの歴史は、江戸初期までさかのぼります。国東半島に生まれたキリシタン司祭ペトロ・カスイ岐部は、ローマで司祭となったのち日本へ帰国し、禁教下で各地を移動しました。捕縛後に江戸へ送られ、1639年、伝馬町牢屋敷で殉教しました。
その場所にあたるとされるのが、中央区日本橋小伝馬町の十思公園周辺です。カトリック東京大司教区の「江戸キリシタン巡礼」でも、伝馬町牢屋敷跡とペトロ岐部の殉教地として紹介されています。大分から江戸へつながる人物史の最も古い層を、現在の都心でたどれる場所です。
現在の大分県域にあった八藩と江戸
江戸時代の現在の大分県域には、豊後国と豊前国の一部に、中津・杵築・日出・府内・森・臼杵・佐伯・岡の八藩と幕府領などが入り組んでいました。大分県の県域変遷資料では、1871年の廃藩置県でこの八藩がそれぞれ中津県、杵築県、日出県、府内県、森県、臼杵県、佐伯県、岡県になったことが確認できます。
| 藩 | 現在の主な地域 | 東京でたどれる接点 |
|---|---|---|
| 中津藩 | 中津市周辺 | 明石町の中屋敷、前野良沢、福澤諭吉 |
| 杵築藩 | 杵築市周辺 | 江戸屋敷と参勤交代で江戸に接続 |
| 日出藩 | 日出町周辺 | 江戸屋敷と参勤交代で江戸に接続 |
| 府内藩 | 大分市周辺 | 江戸屋敷と参勤交代で江戸に接続 |
| 森藩 | 玖珠町周辺 | 江戸屋敷と参勤交代で江戸に接続 |
| 臼杵藩 | 臼杵市周辺 | 江戸屋敷と参勤交代で江戸に接続 |
| 佐伯藩 | 佐伯市周辺 | 旧藩主毛利家の東京屋敷と瀧廉太郎の出生 |
| 岡藩 | 竹田市周辺 | 明石町の上屋敷跡が発掘調査で確認 |
八藩すべての屋敷跡が現在の街歩きスポットとして残っているわけではありません。江戸屋敷は時期によって上屋敷・中屋敷・下屋敷の所在地が変わり、現在は碑のない場所もあります。そのなかで、明石町の中津藩邸と岡藩邸は、現在の東京で大分の藩政史を具体的にたどれる重要な場所です。江戸の藩が教育を担った仕組みは、藩校の歴史と教育をまとめた解説でも詳しく紹介しています。
明石町の中津藩邸――前野良沢と『解体新書』
中央区明石町は、東京と大分の関係を語るうえで最も密度の高い場所です。1717年以降、この一帯には豊前国中津藩奥平家の中屋敷が置かれました。
中津藩医の前野良沢はオランダ語を学び、1771年、杉田玄白や中川淳庵らと小塚原で腑分けを見学しました。その後、彼らはオランダ語版解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組みます。中央区は、中津藩中屋敷で良沢を中心に翻訳作業が進められたことを紹介し、現在この地を東京都指定旧跡「蘭学事始地」としています。
現在、聖路加国際病院付近には「蘭学事始地」の記念碑があります。1771年の小塚原での腑分けから翻訳、1774年の『解体新書』刊行までの流れは、『蘭学事始』の解説と日本の腑分け・人体解剖史に詳しくまとめています。
同じ中津藩邸から慶應義塾へ――福澤諭吉の蘭学塾
前野良沢らの翻訳作業から約87年後、同じ中津藩中屋敷が再び日本の近代教育史に登場します。1858年10月、中津藩の命を受けた福澤諭吉が、江戸築地鉄砲洲の藩邸内に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾の起源です。
現在の明石町には「慶應義塾発祥の地」の碑があり、「蘭学事始地」の碑と近接しています。一つの藩邸が、18世紀の西洋医学翻訳と19世紀の近代教育を結びました。中津藩の江戸屋敷は、大分と東京の関係を「藩邸跡」という一点から知の継承として読める場所です。
福澤はその後、塾を新銭座へ移し、1871年に三田へ移転しました。現在の慶應義塾大学三田キャンパスへ続く系譜です。福澤が幕末に経験した海外渡航を同時代の外交史から見ると、幕末・明治の海外使節団の解説ともつながります。福澤の墓所は港区元麻布の麻布山善福寺にあり、周辺は元麻布・南麻布の歴史散歩でも紹介しています。
旧佐伯藩主の東京屋敷で生まれた瀧廉太郎
「荒城の月」「花」で知られる瀧廉太郎は、大分県との結びつきが深い作曲家ですが、出生地は東京です。1879年8月24日、東京市芝南佐久間町2丁目18番地、旧佐伯藩主・毛利高謙の江戸屋敷内にあった侍長屋で生まれました。竹田市の公式資料がその出生地を明記しています。
父の転勤に伴って各地を移り、少年期には大分県竹田で暮らしました。のちに東京へ戻り、東京音楽学校で学びます。千代田区一番町には「滝廉太郎宅跡」が東京都指定旧跡として残り、上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂は、廉太郎が実際にピアノを弾いたホールを伝えています。

旧奏楽堂は1890年に建てられ、現在は国の重要文化財です。2026年も建物公開日が設定され、明治の音楽教育を実際の空間で体感できる施設として公開されています。
上野と谷中――瀧廉太郎と朝倉文夫が交差する
旧東京音楽学校奏楽堂には、瀧廉太郎の胸像があります。作者は、大分県大野郡池田村、現在の豊後大野市に生まれた彫刻家・朝倉文夫です。
朝倉は19歳で上京し、東京美術学校で彫刻を学びました。やがて同校の教授となり、日本近代彫刻を代表する存在になります。台東区谷中に構えた住居兼アトリエは現在の朝倉彫塑館です。建物そのものが朝倉の制作と生活を伝え、作品と空間を一体で見られます。

上野では、東京美術学校と東京音楽学校という二つの系譜が現在の東京藝術大学へつながりました。キャンパス周辺に残る彫刻や人物像は、東京藝術大学の銅像・記念像28体の解説で詳しくたどれます。朝倉彫塑館から谷中・千駄木へ歩くコースは、谷中・千駄木・向丘の歴史散歩にもつながります。
宇佐から両国へ――双葉山と時津風部屋
大分県宇佐出身の第35代横綱・双葉山は、69連勝で相撲史に名を残しました。1941年に「双葉山相撲道場」を興し、引退後は時津風親方として後進を育てました。現在の時津風部屋は墨田区両国3丁目にあり、前身を伝える「双葉山相撲道場」の看板が掲げられています。
朝倉文夫は1937年に「双葉山像」を制作しており、ここでも大分出身者同士の線が東京で交わります。谷中の彫刻家と両国の横綱は、一見離れた人物ですが、近代東京の美術と大衆文化の接点で結ばれています。
時津風部屋は現役の相撲部屋です。公式案内では、一般向けの稽古見学予約は行われていません。街歩きでは部屋の外観と看板が、双葉山の系譜を現在へ伝える痕跡になります。
藩邸から県人会へ――東京で続く大分のネットワーク
明治以降、東京と大分を結ぶ仕組みは藩邸から県人会や行政拠点へ変わりました。大分県東京事務所は現在、千代田区平河町2丁目6番3号の都道府県会館4階にあります。在京大分県人会の事務局も同所に置かれています。
在京大分県人会は2026年も活動を続け、5月24日には明治記念館で令和8年度の定時総会・懇親会を開催しました。青年部や各種交流活動も続いています。江戸時代には藩ごとに分かれていた人の往来が、近代以降は「大分県」というまとまりの県人ネットワークへ受け継がれました。
2026年に歩ける「東京の大分」
| 場所 | 所在地 | 大分との関係 | 現在見られるもの |
|---|---|---|---|
| 十思公園・伝馬町牢屋敷跡 | 中央区日本橋小伝馬町5-2 | ペトロ岐部の殉教地 | 公園、牢屋敷関係の史跡表示 |
| 蘭学事始地・慶應義塾発祥の地 | 中央区明石町 | 中津藩中屋敷、前野良沢、福澤諭吉 | 二つの記念碑 |
| 豊後岡藩中川家上屋敷跡 | 中央区明石町1-6周辺 | 岡藩上屋敷 | 発掘資料で屋敷跡を確認 |
| 滝廉太郎宅跡 | 千代田区一番町6 | 東京で暮らした瀧廉太郎 | 東京都指定旧跡 |
| 旧東京音楽学校奏楽堂 | 台東区上野公園8-43 | 瀧廉太郎が学び演奏 | 重要文化財の奏楽堂、瀧廉太郎像 |
| 朝倉彫塑館 | 台東区谷中7-18-10 | 朝倉文夫の住居兼アトリエ | 建物、アトリエ、彫刻作品 |
| 麻布山善福寺 | 港区元麻布1-6-21 | 福澤諭吉の墓所 | 境内・墓所 |
| 時津風部屋 | 墨田区両国3-15-4 | 双葉山相撲道場の系譜 | 外観、「双葉山相撲道場」の看板 |
| 大分県東京事務所 | 千代田区平河町2-6-3 | 現代の行政・県人ネットワーク | 都道府県会館4階の現役事務所 |
一日で全部を巡るより、中央区の「江戸と蘭学」、上野・谷中の「音楽と彫刻」、両国の「相撲」、平河町の「現代の県人社会」とテーマを分けると、それぞれの時代が鮮明になります。
東京の中で大分史がつながる場所
大分と東京の関係は、ひとつの英雄や名所だけで続いたものではありません。中津藩邸では前野良沢の翻訳作業から福澤諭吉の蘭学塾へ知の系譜がつながり、上野では瀧廉太郎と朝倉文夫が音楽と彫刻で交差しました。朝倉はさらに双葉山を造形し、両国には双葉山相撲道場の名が残っています。
江戸の藩邸は多くが姿を消しましたが、人の移動と活動は別の形で続きました。現在の大分県東京事務所と在京大分県人会までたどると、東京の中の大分史は17世紀から2026年まで一本の線になります。

