日本銀行氷川分館とは?赤坂の武家地と「氷川寮」で決まった日銀特融の歴史

赤坂氷川神社の社殿。緑青色の屋根と朱色の柱が見える

赤坂氷川神社の西側、緑の濃い住宅街に、日本銀行の広大な敷地があります。日本銀行氷川分館ひかわぶんかん。かつて「氷川寮」と呼ばれたこの施設では、外国の中央銀行幹部との会談に加え、1965年に山一証券を救済するための重大な協議が行われました。

日本銀行氷川分館とは――赤坂の会合施設

日本銀行氷川分館の所在地は東京都港区赤坂6丁目19番13号です。海外の中央銀行幹部や国内外の要人を迎え、業務や金融政策に関する協議を行う施設として使用されてきました。

2006年11月10日の衆議院財務金融委員会で、日本銀行理事の水野創は、機密を要する会合に使うほか、当時は本店被災時の災害対応拠点としての活用も想定していたと説明しました。同じ委員会で福井俊彦ふくいとしひこ総裁は、海外中央銀行総裁と食事を交えながら非公式に話し合う場合や、厳重な警備を要する訪問者を迎える場合に分館を活用していると述べています。2006年の国会会議録に、当時の利用目的が具体的に残されています。

1998年の国会に提出された資料では、敷地面積は11,982平方メートル(約3,630坪)。赤坂の都心部に約1.2ヘクタールの土地を持つ施設の維持費や、売却の是非も議論されました。

江戸時代の赤坂――氷川神社と武家屋敷

氷川分館の東隣にある赤坂氷川神社は、8代将軍徳川吉宗とくがわよしむねの命により、1729年に社殿の造営が始まり、1730年4月26日に現在地へ遷座しました。江戸時代の社殿は関東大震災と1945年の空襲を免れて現存し、東京都指定有形文化財となっています。赤坂氷川神社の公式沿革にも経緯が記されています。

赤坂氷川神社の社殿。緑青色の屋根と朱色の柱が見える
赤坂氷川神社の社殿。2014年撮影。Carbonium/Wikimedia Commons/CC BY 3.0。

江戸時代の赤坂は武家屋敷が集まる地域でした。江戸切絵図を用いた現地調査では、現在の氷川分館の付近を駿河国田中藩本多家の中屋敷跡とする紹介があります。

1850年の江戸切絵図に描かれた武家地は、「赤坂絵図を徹底解説」で確認できます。現在の坂道と武家屋敷跡については、赤坂4~8丁目の歴史散歩でも紹介しています。

建物はいつ建てられたのか

1997年4月25日の衆議院大蔵委員会で、日本銀行総裁の松下康雄まつしたやすおは、氷川分館について戦後間もない時期に建設されたと聞いている旨を答弁しました。

建築史研究者の藤岡洋保ふじおかひろやすは、1988年に『日本銀行氷川分館建物調査報告書』を刊行しています。CiNii Researchに書誌情報が登録されており、発行元は東京工業大学藤岡研究室です。

1965年5月28日――山一証券への日銀特融を決めた氷川寮

1965年、株式市場の低迷と経営悪化によって大手証券会社の山一証券やまいちしょうけんに解約請求が殺到しました。5月28日には資金繰りが行き詰まり、証券業界全体へ不安が広がるおそれが生じました。

同日夜、日銀の「氷川寮」で、山一証券の主力取引先だった日本興業銀行、富士銀行、三菱銀行の首脳と大蔵省・日本銀行の関係者が協議しました。日本証券経済研究所が公表した歴代証券局長の口述記録に基づく研究によると、三行を通じて日銀が資金を供給するかどうかで議論が続く中、遅れて加わった大蔵大臣の田中角栄たなかかくえいの発言を機に、特別融資が決まりました。日本証券経済研究所「歴代証券局長口述記録を読む(その5)」に、会議の経緯が記されています。

1973年に撮影された田中角栄の横顔の肖像写真
田中角栄。1965年、山一証券への日銀特融を発表した当時の大蔵大臣です。写真は1973年撮影。White House Photo Office/NARA/Public Domain。

田中大臣はその深夜、山一証券への無担保・無制限の特別融資を発表しました。融資は主力銀行を経由し、最終的に8回、総額282億円に達します。山一証券への解約ラッシュは収まり、融資は約4年で完済されました。日本銀行の公式沿革にも1965年5月の特融決定が記録されています。

1997年11月、山一証券は自主廃業を表明しました。1965年の特融から32年後の経営破綻については、日本の金融危機の歴史でも扱っています。

1994年――信用組合破綻の処理をめぐる会合

1994年12月、東京協和信用組合と安全信用組合の経営危機が表面化しました。当時の住友銀行幹部の回顧によると、同年12月初め、同行の頭取と専務が氷川分館に極秘に呼ばれ、大蔵省や日本銀行、金融機関の幹部と破綻処理を協議しました。

同年12月9日、日本銀行の政策委員会は、破綻する二つの信用組合の事業を引き継ぐ新銀行に民間金融機関と共同出資する方針を決定しました。翌1995年1月13日に東京共同銀行が設立され、資本金400億円のうち日本銀行が200億円、全国152の民間金融機関が計200億円を拠出しました。金額、設立日、出資者の内訳は会計検査院の平成6年度決算検査報告で確認できます。

海外中央銀行との非公式協議と外交の場

1998年10月9日の国会で、日本銀行総裁の速水優はやみまさるは、同年7月に国際決済銀行(BIS)と東アジア・オセアニア中央銀行役員会議(EMEAP)の関係者を迎えた際、氷川分館を使用したと説明しました。

2006年の国会で福井俊彦ふくいとしひこ総裁が説明した用途は、中央銀行総裁同士が食事をともにしながら話す非公式の会談でした。警備上、ホテルでの会合が難しい場合があることも理由に挙げています。衆議院財務金融委員会の議事録から、当時の日銀側の考えが分かります。

広大な敷地と国会での売却論争

1998年5月21日の参議院財政・金融委員会では、氷川分館の敷地面積が11,982平方メートルと示され、都心の不動産を売却して国庫納付などへ回すべきだという意見が出ました。同日の会議録には、日銀の保有資産の在り方を問う議論が残ります。

同年10月の答弁で、速水総裁は固定資産税の課税標準額を47億円と説明しました。2006年の審議では、維持管理費も明らかになっています。日本銀行理事によると、2005年度の維持管理費は4,100万円、固定資産税・都市計画税は8,000万円で、合計1億2,100万円でした。同じ審議で馬淵澄夫まぶちすみお委員は年間63回の利用と指摘し、施設を保有する費用対効果を追及しました。

一方、日銀側は海外中央銀行との会談や機密を要する協議の必要性を挙げ、施設を保有する理由を説明しました。2006年の審議では、参加者の機密を守るための施設条件についても追及があり、水野理事は、盗聴・盗撮への対策を含む完全な機密保持について、当時の確認状況に限界があると答弁しました。

見学はできる?赤坂氷川神社周辺を歩く

日本銀行の見学案内では、本店などの施設が紹介されています。氷川分館は一般向けの定例見学施設として案内されておらず、赤坂の公道から門や塀、周囲の緑を眺められます。最新の見学情報は日本銀行の公式案内に掲載されています。

隣の赤坂氷川神社には江戸時代の社殿が残り、付近には氷川坂などの坂道が続きます。赤坂の歴史散歩とあわせて歩くと、武家屋敷のあった高台に、近代以降の官民の施設が重なる土地の変化を感じられます。

よくある質問

氷川分館と氷川寮は別の場所ですか?

1965年の山一証券救済を扱う史料には「氷川寮」という名前が使われています。現在の日本銀行氷川分館を指す名称です。

大名屋敷の建物が現在も残っていますか?

氷川分館の建物については、1997年の国会で日本銀行総裁が戦後間もない時期の建設と説明しました。一方、隣の赤坂氷川神社には1730年造営の社殿が現存しています。

参考資料