品川区東五反田の高台に、白いタイルで覆われた洋館が建っています。庭園へ向かって弧を描く二層のベランダ、整然と並ぶ列柱、木彫りの大階段。清泉女子大学本館として使われるこの建物は、かつて薩摩の島津公爵家が暮らした旧島津家本邸です。鹿鳴館や旧岩崎邸を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドルの晩年の作品で、2019年には旧事務所とともに国の重要文化財に指定されました。
江戸時代の仙台藩伊達家下屋敷から島津公爵邸へ。大正天皇・皇后を迎えた華やかな時代を経て、戦後は占領軍に接収され、1962年から女子大学の校舎となりました。屋敷の歴史は、玄関や応接室の配置、庭に開いた窓、保存された装飾にも刻まれています。
旧島津家本邸の基本情報
| 現在の用途 | 清泉女子大学本館 |
|---|---|
| 所在地 | 東京都品川区東五反田3-16-21 |
| 施主 | 島津公爵家、第30代当主島津忠重 |
| 設計者 | ジョサイア・コンドル(1852~1920年) |
| 年代 | 1915年に建物竣工、1917年に落成 |
| 構造 | 煉瓦造、地上2階・一部地下1階 |
| 建築面積 | 本館876.21平方メートル、旧事務所250.14平方メートル |
| 文化財指定 | 2019年、国の重要文化財(本館・事務所) |
清泉女子大学の沿革では、建物の竣工を1915年、設備や家具の準備を終えた落成を1917年と区別しています。文化庁の指定資料には1917年の建築として記録されています。現在も教室や会議室として使われており、近代の邸宅建築と大学の活動が同じ建物の中に共存しています。
伊達家下屋敷から島津公爵邸へ――高台の歴史
現在のキャンパスがある袖ヶ崎は、かつてツツジで知られ、海を隔てて房総の山々を望めた景勝地でした。江戸時代には仙台藩伊達家の下屋敷となり、明治6年(1873)頃には薩摩の島津家の所有に移ります。明治12年(1879)には和館が建てられ、明治14年(1881)には明治天皇が訪れました。
島津家は江戸時代に薩摩藩を治めた大名家で、明治に公爵家となりました。明治39年(1906)、第30代当主の島津忠重は、古い和館に代わる東京本邸の設計をコンドルに委嘱します。幾度かの設計変更を経て大正4年(1915)に洋館が竣工し、大正6年(1917)に落成しました。高台の眺望と庭園に面する配置は、旧邸宅の立地を生かしたものです。
設計者ジョサイア・コンドルと旧島津家本邸
ジョサイア・コンドルは1852年にロンドンで生まれ、1877年に日本政府の招きで来日しました。工部大学校で建築を教え、辰野金吾ら日本の近代建築を担う人材を育てています。鹿鳴館、御茶ノ水のニコライ堂、三菱一号館、旧岩崎邸、旧古河邸などを設計し、1920年に日本で亡くなりました。
旧島津家本邸はイタリア・ルネサンス様式を基調とする煉瓦造の洋館です。旧岩崎邸の英国ジャコビアン様式を基調とした木造洋館とは、構造も外観も異なります。両者の違いは、旧岩崎邸庭園とコンドル建築の紹介と比較すると明瞭です。
外観の見どころ――弓形ベランダと白いタイル
南側に張り出す二層のベランダ
庭園側の南面には、二層のベランダが大きな円弧を描いて張り出しています。奥に並ぶ窓も曲線に沿い、芝生の庭から見ると、中央の弧と左右の直線的な外壁が一体になった立面が浮かび上がります。南側からの全景は、この邸宅を代表する景観です。
1階の柱頭は簡素で力強いトスカーナ式、2階は渦巻き形の装飾を備えるイオニア式です。古典建築で用いられた形式を上下階で使い分けています。円弧に沿って柱が並ぶため、真正面と斜めからでは柱の重なり方が変化します。
白タイルと灰色の石材
外壁は煉瓦造の表面を白いタイルで仕上げています。建物の輪郭を強調する隅石には灰色の新小松石が使われました。白と灰色の対比が窓の輪郭と建物の奥行きを際立たせます。洋館は1923年の関東大震災に耐え、戦災も免れました。

正面玄関のアーチと扉

正面玄関には石のアーチと装飾された扉が設けられています。庭園に開くベランダとは異なり、玄関は公爵家の来客を迎える顔でした。入口を取り囲むタイル、石材、木製建具の組み合わせにも、細かな仕上げが見られます。
館内の見どころ――ステンドグラス、大階段、暖炉
玄関のステンドグラス

館内のステンドグラスは建物竣工当時から残る装飾です。左右対称の構成に、植物を思わせる曲線が用いられています。19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパで流行したアール・ヌーヴォーの意匠が、古典的なイタリア・ルネサンス様式の洋館に取り入れられました。
中央ホールの大階段

中央ホールの大階段は、玄関から来た客の目に入る華やかな空間です。重厚な木製の手すり、彫刻を施した暖炉、イオニア式の柱、天井の漆喰装飾が残ります。暖炉や階段の彫刻、天井の装飾は、ほぼ建設当初の姿を伝えています。
2009年には耐震補修が行われ、壁紙や絨毯など一部の内装が更新されました。現在のホールは学生の利用する場所でもあり、近代の住宅装飾が大学の日常の中に残っています。
公爵家の生活がわかる間取りと旧書斎
洋館全体はT字形の平面です。1階南側には大小の応接室が芝生の庭に沿って並び、廊下で玄関ホールにつながります。中央には当主の書斎、大食堂、家族の食堂、階段室が置かれ、北側には使用人のための空間がありました。客を迎える場所と屋敷の仕事を担う場所を分けた構成です。

2階には公爵夫妻の寝室、子供室、浴室など、家族の私的な部屋がありました。暖炉の枠は1階が大理石で、2階は木製を基本とします。ただし庭園を望む2階の夫人客室だけには白い大理石の暖炉があります。1917年の皇室訪問に際し、眺望のよい部屋を便殿(休憩所)にする計画があったことに関連すると考えられています。
1917年の皇室訪問と約2,000人の園遊会
洋館は1915年に竣工した後、洋画家黒田清輝の指揮で家具や館内設備が整えられ、1917年に落成しました。同年5月8日には大正天皇・皇后が訪問し、寺内正毅首相、松方正義、東郷平八郎らも参列しました。
5月11日には新築披露の園遊会が開かれ、約2,000人が招かれました。洋館の庭園と応接室は、公爵家が皇室や政財界の人々を迎える社交の舞台でもありました。清泉女子大学の歴史年表には当時の記念写真が掲載されています。
庭園と旧事務所――本館の外に残る見どころ
南庭とフウの木
南庭の芝生からは、円弧を描くベランダとその背後の窓、左右の外壁がまとまって見えます。庭には品川区指定天然記念物の大きなフウの木が立ち、推定樹齢は150~200年です。島津家の庭園整備に際して移植されたと考えられ、洋館を取り巻く植栽の歴史も伝えています。

もう一棟の国重要文化財・旧事務所
現在の3号館は、島津家の事務所として建てられた煉瓦造2階建ての建物です。1917年頃の建築で、建築面積は250.14平方メートル。大邸宅の家政や財産管理を担う場所でした。本館とともに国の重要文化財に指定され、現在は2階に大学史料室が置かれています。

日本銀行への売却、占領軍接収、大学への転用
昭和初期の金融恐慌は島津家の家計にも影響しました。1929年には約2万8,000坪あった土地の周辺部を売却し、中心部の約8,000坪を残します。1944年には邸宅を日本銀行へ売却。戦後の1946年から1954年まで占領軍に接収され、将校向けの施設として利用されました。
現在のA会議室(旧公爵書斎)の木部には、「OUTLET」などの英字表示が残っています。占領軍接収時代の名残として伝わる痕跡です。

接収解除後、清泉女子大学は1961年に日本銀行から土地と建物を購入しました。1962年に神奈川県横須賀市から大学が移転すると、旧島津公爵邸は本館になりました。かつての応接室などは教室や会議室として使われ、現在の館内には大学の聖堂もあります。2009年の耐震補修を経て、2012年に東京都指定有形文化財、2019年に国の重要文化財となりました。
清泉女子大学の創立とキャンパスの歴史
大学の源流は、1934年に来日したカトリック修道会・聖心侍女修道会の修道女4人による女子教育です。1935年に東京・麻布で清泉寮が開かれ、1938年には財団法人清泉寮が設立されました。戦時中の休校と1945年の校舎焼失を経て、1950年に神奈川県横須賀市で文学部の4年制大学として開学しました。
大学はキリスト教ヒューマニズムを建学の精神とし、「VERITAS et CARITAS(まことの知・まことの愛)」をモットーとしています。2025年には総合文化学部と地球市民学部が発足しました。日本の女子教育史との関係は、日本女子教育の歴史でも紹介しています。
旧島津家本邸の見学ツアーとアクセス
旧島津家本邸は通常非公開で、春季と秋季に大学の学生ガイドによる事前申込制の見学ツアーが開催されています。ツアーは約50分で、館内の案内後に庭園を散策できます。各回定員は30人、複数名での申し込みは代表者を含め3人以内です。開催日程や撮影可能な場所は時期によって異なり、正面玄関では修繕の状況に応じた撮影制限が設けられる場合があります。最新の開催情報は大学公式の見学ツアー案内に掲載されています。
所在地は東京都品川区東五反田3-16-21。五反田駅から徒歩約10分です。周辺には高輪の旧街道や御殿山の台地、目黒川沿いの低地があり、地形の変化からも旧邸宅の立地がわかります。周辺の歴史は、高輪・品川・五反田の歴史散歩と目黒川の歴史を歩くで紹介しています。島津家の東京での足跡は、東京に残る鹿児島ゆかりの地にもつながります。

