東京の風景には、滋賀県の歴史が深く入り込んでいます。上野の不忍池は琵琶湖に見立てられ、皇居東御苑では甲賀組が江戸城を守りました。江戸城など幕府の建築を担った甲良家の祖は近江出身です。外桜田には彦根藩井伊家の上屋敷、紀尾井町には中屋敷があり、世田谷には彦根藩領と代官屋敷が残りました。
日本橋では近江商人が店を構え、明治になると彦根藩士の家に生まれた若者たちが東京の法学教育を支えます。江戸の都市形成から現代の県人ネットワークまでたどると、東京と滋賀の関係は一本の長い歴史としてつながります。
上野に造られた「もう一つの琵琶湖」
上野公園の不忍池には、江戸の中に近江を写した風景があります。寛永寺を開いた天海は、京都や近江の寺社景観を上野に重ねる「見立て」を用いました。天然の不忍池を琵琶湖に、小島を竹生島に見立て、島を拡張して竹生島の宝厳寺に対応する辯天堂を建立しました。
現在の不忍池辯天堂は、上野のにぎわいの中にありながら、その成立をたどると琵琶湖と竹生島へ行き着きます。江戸の人々は、遠く離れた霊場の地理を都市の中に再構成していたのです。周辺の江戸期の姿は、当サイトの「下谷絵図を徹底解説|上野・寛永寺・不忍池を古地図で読む」でも詳しくたどれます。
小石川後楽園と日枝神社にも残る滋賀の記憶
琵琶湖を写した庭園は小石川後楽園にもあります。園の中心景観である大泉水は琵琶湖に見立てられ、蓬莱島と竹生島を配して造られました。東京都公園協会は2026年7月の園内案内でも、大泉水を琵琶湖に見立てた景観として紹介しています。不忍池と小石川後楽園を結ぶと、江戸の都市や庭園に琵琶湖の風景が繰り返し写されていたことが分かります。
永田町の日枝神社には、滋賀県大津市坂本の日吉大社を総本宮とする日吉・日枝・山王信仰の系譜が残ります。日吉大社は全国約3,800社の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。東京の日枝神社は古く「日吉山王社」「江戸山王大権現」などと呼ばれ、江戸城の鎮守として徳川家の崇敬を受けました。江戸期の永田町・赤坂周辺は、「赤坂絵図を徹底解説|溜池・赤坂見附・山王を古地図で読む」でもたどれます。
甲賀が守り、甲良が造った江戸城
皇居東御苑に現存する百人番所では、甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の鉄砲百人組が昼夜交替で警備しました。宮内庁によると、各組は20人の与力と100人の同心で構成され、本丸へ向かう要所を守っていました。滋賀県南部の甲賀という地名が、江戸城の警備組織として東京の中心に刻まれています。
建築の側にも近江の人脈がありました。幕府作事方大棟梁の甲良宗広は、近江国犬上郡法養寺村、現在の滋賀県犬上郡甲良町の出身です。甲良家は宗広から11代にわたり幕府の作事方大棟梁を務め、江戸城、寛永寺、日光東照宮など幕府直轄工事の設計・監督・修理に関わりました。東京都立中央図書館には、甲良家に伝来した江戸城造営関係資料646点が重要文化財として所蔵されています。
甲賀が江戸城を守り、甲良の大工家が江戸城を造営する。似た響きを持つ二つの名は、滋賀と江戸城の関係を防衛と建築の両面から伝えています。
彦根藩井伊家は東京のどこにいたのか
彦根藩井伊家は、江戸城桜田門の近く、現在の国会前庭北地区に上屋敷を構えていました。幕末には大老・井伊直弼がここに居住し、屋敷から江戸城へ登城していました。現在は新たな国立公文書館と憲政記念館の合築施設の建設地となっています。
この地では新館建設に先立って発掘調査が行われ、井伊家の家紋である橘紋をあしらった瓦や、井桁の紋様を持つ鬼瓦などが出土しました。現地の主要調査は2024年8月までに終わり、2025年4月から建設工事が開始されています。調査報告書は2026年度に作成される予定です。上屋敷の位置と周辺の大名屋敷は、「外桜田永田町絵図を徹底解説|桜田門・井伊家上屋敷・永田町を古地図で読む」で古地図から確認できます。
もう一つの大きな拠点が紀尾井町です。現在のホテルニューオータニ日本庭園は、加藤清正の下屋敷を経て井伊家へ渡り、幕末まで中屋敷として使われました。紀尾井町の町名も、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、彦根井伊家の「井」を合わせたものです。日本庭園は2026年9月現在、6時から22時まで開園しています。
桜田門から豪徳寺へ――井伊直弼の東京
彦根藩主の井伊直弼は1858年に大老となり、日米修好通商条約の調印や将軍継嗣問題をめぐる幕政の中心に立ちました。反対派への処分は安政の大獄へ発展し、直弼をめぐる政治対立は急速に深まります。人物像と政策の経緯は、「井伊直弼とは何者か|開国・安政の大獄・桜田門外の変をどう見るか」で詳しく解説しています。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、直弼は外桜田の上屋敷から江戸城へ向かう途中、桜田門外で水戸浪士らに襲撃されて命を落としました。屋敷と事件現場が近接していたことは、古地図を見るとよく分かります。現在の桜田門周辺は、幕末政治の一場面が実際の距離感で残る場所です。

直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にあります。豪徳寺は井伊家の江戸菩提寺で、国史跡「彦根藩主井伊家墓所」には直弼を含む歴代藩主やその家族の墓が並びます。世田谷区の調査では墓石は303基にのぼります。彦根から江戸へ出た井伊家の歴史は、桜田門の政治史と豪徳寺の墓所によって東京の東西に残されています。

世田谷に残る彦根藩の代官屋敷
井伊家は世田谷にも領地を持っていました。江戸時代中期以降、彦根藩は現在の世田谷区周辺に世田谷領20か村を持ち、大場家が代官を世襲しました。その役宅が現在の世田谷代官屋敷です。
大名領の代官屋敷として東京都内で唯一残る存在で、主屋と表門は国の重要文化財です。近世の彦根藩が東京で領地を治めていた事実を、建物そのものから確かめられます。2026年9月現在、開館は9時から17時、入場無料。月曜・祝日・年末年始は休館です。敷地内には世田谷区立郷土資料館もあります。
日本橋を支えた近江商人
東京と滋賀の関係を商業からたどると、日本橋へ行き着きます。近江商人の中でも西川家は、その連続性がはっきり残る例です。初代仁右衛門は1549年に近江国に生まれ、1566年に商売を始めました。1587年には近江八幡に本店を構え、1615年には江戸日本橋通一丁目に支店「つまみだな店」を開きます。

西川は江戸の成長とともに店を拡大し、近江蚊帳などを扱いました。2026年は西川の創業460周年にあたります。江戸の日本橋で近江商人が築いた商業の歴史は、企業として現在まで続いています。江戸期の日本橋周辺は、「日本橋北神田浜町絵図を徹底解説|日本橋・神田・両国を古地図で読む」でも確認できます。
そして日本橋二丁目には、滋賀県の情報発信拠点「ここ滋賀」があります。近江商人が江戸へ進出した日本橋に、400年後も滋賀の東京拠点が置かれている構図です。滋賀県は2026年9月7日、「ここ滋賀」の内装設計業務について公募型プロポーザルを公告しました。江戸以来の接点を持つ日本橋で、現代の滋賀発信も更新期を迎えています。
彦根藩士の子どもたちが東京の大学をつくった
明治になると、彦根と東京の関係は教育へ広がります。彦根藩士の家に生まれた相馬永胤は、戊辰戦争で彦根隊に加わったのち渡米し、法律と経済を学びました。1879年に帰国し、翌1880年に仲間と専修学校を創立。初代校長、のち初代学長を務めました。専修学校は現在の専修大学へ続きます。
同じく彦根藩士の家に生まれた増島六一郎は、東京大学を卒業後にイギリスのミドルテンプルで法学を学びました。帰国後の1885年、法律家17人とともに東京・神田錦町で英吉利法律学校を創設し、初代校長となります。これが現在の中央大学です。
江戸では彦根藩が大名屋敷と領地を持ち、明治にはその旧藩士層から東京の近代法学教育を担う人材が現れました。政治の中心にいた井伊家から、法律を教える私学へ。彦根と東京の関係は、幕藩体制の終焉後も形を変えて続きました。
上京した滋賀県人をつないだ県人会と湖国寮
近代以降、東京へ移った滋賀県人を支えたのが県人ネットワークです。一般社団法人東京滋賀県人会は、現在の団体概要で設立を1957年3月12日とし、会員数525名を掲げています。交流行事や広報を通じて、首都圏の滋賀県人を結ぶ活動を続けています。
武蔵野市には学生寮の湖国寮があります。滋賀県教育委員会は2026年度も、首都圏の大学や専門学校へ進学する滋賀県出身者を対象に入寮生を募集しました。所在地は武蔵野市西久保二丁目で、三鷹駅から徒歩圏です。藩邸や商店とは異なる形で、現在も滋賀から東京へ移る若者を支える場所が続いています。
東京で滋賀を歩くなら5つのエリアへ
滋賀ゆかりの場所は都内各地に分かれています。歴史の流れに沿って歩くなら、次の5エリアに分けると、それぞれの時代をまとまりよくたどれます。
| エリア | 主な場所 | 見える歴史 |
|---|---|---|
| 上野 | 不忍池辯天堂 | 琵琶湖・竹生島を写した江戸の「見立て」 |
| 後楽園 | 小石川後楽園 | 大泉水に写された琵琶湖と竹生島 |
| 皇居・永田町・紀尾井町 | 百人番所、桜田門、井伊家上屋敷跡、日枝神社、ホテルニューオータニ日本庭園 | 甲賀組、江戸城造営、山王信仰、彦根藩井伊家、幕末政治 |
| 世田谷 | 豪徳寺、世田谷代官屋敷 | 井伊家の菩提寺と彦根藩世田谷領 |
| 日本橋 | 日本橋、近江商人ゆかりの商業地、ここ滋賀 | 江戸商業から現代の滋賀発信まで |
上野の琵琶湖から江戸城、彦根藩の屋敷と領地、近江商人の日本橋、そして現代の県人会や「ここ滋賀」へ。東京に残る滋賀の痕跡は、近江の人々と文化が江戸・東京の都市そのものに関わってきた歴史を伝えています。

