霞が関、内幸町、元麻布、三田。現在の東京を歩くと、江戸時代に日向国の諸藩が置いた屋敷の位置を、今の街路の上に重ねることができます。高輪の東禅寺、半蔵門近くの海嶽楼跡、青山霊園、銀座の医学教育発祥地へと足を延ばせば、宮崎と東京の関係は藩邸から学問、外交、医学、人の交流へと続いていきます。
東京に残る宮崎は、郷土料理店や物産館だけではありません。江戸に集った日向の藩士、明治国家で働いた宮崎出身者、上京者を結んだ県人会、戦後の学生寮、そして2026年に生まれる新しい交流拠点まで、街の中に長い時間の層が残っています。
江戸の東京にあった日向4藩
江戸時代の日向国には、延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩などがあり、各藩は参勤交代と江戸での政務のため藩邸を構えました。ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)の『寛政武鑑』と江戸図を現在地に対応させると、上屋敷はおおむね次の位置に重なります。境界や街区は時代ごとに変化しているため、現在地は武鑑・江戸図から見た位置の目安です。
| 藩 | 武鑑の上屋敷記載 | 現在地の目安 |
|---|---|---|
| 延岡藩 | 上虎ノ御門内 | 千代田区霞が関3丁目付近 |
| 飫肥藩 | 上外桜田 | 千代田区内幸町2丁目付近 |
| 高鍋藩 | 上麻布百姓町 | 港区元麻布2丁目付近 |
| 佐土原藩 | 上芝三田小山 | 港区三田2丁目付近 |
高鍋藩上屋敷は現在の元麻布、麻布中学校・高等学校付近にあったとされます。のちに米沢藩主となる上杉鷹山(治憲)は高鍋藩秋月家に生まれ、10歳で上杉家の養子となるまでこの江戸屋敷で暮らしました。麻布の土地の変化は、麻布絵図を読む記事、大正期の麻布区をたどる記事、明治五千分一東京図で赤坂・麻布・広尾を見る記事でも詳しく追えます。
高鍋藩の下屋敷は現在の南青山4丁目付近にあり、青山霊園に近い場所でした。一方、飫肥藩伊東家の下屋敷は現在の神宮外苑、明治神宮野球場周辺に重なります。江戸の大名屋敷から近代の軍用地、外苑へと変わった一帯は、青山一丁目から神宮外苑・原宿を歩く記事や大正期の赤坂・青山を読む記事と合わせると、街の変化がつかみやすくなります。
飫肥が東京に残した寺と坂
港区高輪の東禅寺は、1610年に飫肥藩主伊東家ゆかりの寺として始まりました。開山は飫肥出身の嶺南崇六です。寺は当初、溜池付近に置かれ、1636年に高輪へ移りました。伊東家の菩提寺として、江戸に暮らす飫肥藩の人々と故郷を結ぶ場所でもありました。
嶺南の名は、現在の港区に残る霊南坂にもつながります。寺が溜池付近にあった時代、嶺南が住んだことから坂の名が生まれたと伝わります。飫肥の僧の名が、東京の坂名として今も残っていることになります。
幕末になると東禅寺は外交史の舞台に変わりました。1859年に初代英国公使ラザフォード・オールコックが入り、英国公使館として使われます。1861年と1862年には攘夷派による襲撃事件が起こり、幕府は警備を強化しました。『宮崎県史』に基づく国立国会図書館のレファレンス事例では、延岡藩も東禅寺警備を命じられたことが確認できます。飫肥藩ゆかりの寺を延岡藩が警備するという形で、幕末外交の現場に二つの日向の藩が交差しました。
東禅寺から霊南坂へ歩くと、江戸の藩、寺院、地名、幕末外交が一続きになります。赤坂・虎ノ門方面の地理は、大正東京・赤坂区の古地図解説でも確認できます。
安井息軒と江戸・東京の学問
安井息軒は1799年、現在の宮崎市清武町に生まれた儒学者です。大阪や江戸で学び、1838年に江戸へ移住し、翌1839年に私塾「三計塾」を開きました。塾は移転を重ねながら多くの門人を育て、日向出身の学者が江戸の知識人社会に根を張る拠点となりました。
晩年の住まいとして知られるのが、半蔵門近くの海嶽楼です。1865年、息軒は伊庭家の旧宅へ移り、西に富士、東に海を望む景観からこの名を付けました。現在は千代田区内に跡を示す解説板があり、江戸での暮らしを街路上に重ねられます。
息軒は1876年に東京で亡くなり、墓は文京区千駄木の養源寺にあります。宮崎市は現在も「安井息軒顕彰小学生使節団」を送り、2026年度も小学6年生が東京の息軒ゆかりの地を訪ねています。郷里で学ぶ息軒の歴史と、東京に残る実際の足跡が、今も子どもたちの往来によって結ばれています。
青山霊園に眠る宮崎の近代人
1874年に開設された都立青山霊園には、明治以降の政治家、軍人、実業家、学者らの墓所が集まっています。宮崎から近代国家の中枢へ進んだ人物をたどる場所としても重要で、外交の小村寿太郎と医学の高木兼寛がともに眠ります。青山周辺を実際に歩くなら、長谷寺・青山霊園・梅窓院をめぐる散歩記事も現地案内として利用できます。

小村寿太郎
小村寿太郎は1855年、飫肥に生まれました。外務官僚として条約改正や東アジア外交に携わり、外務大臣として日英同盟を進め、1905年には日露戦争後のポーツマス講和会議で日本全権を務めました。1911年の関税自主権回復にも関わり、明治日本の外交を代表する人物の一人です。外交史上の位置づけは、歴代外務大臣一覧と日本外交史でも詳しく解説しています。

小村の墓所は青山霊園にあります。現在は一般社団法人小村寿太郎侯東京奉賛会が日南市から墓地管理を委託され、清掃や墓参、墓前祭を続けています。在京宮崎県人会の公式サイトにも同奉賛会が関連団体として掲載され、東京における小村顕彰の活動が続いています。
高木兼寛
高木兼寛は1849年、現在の宮崎市高岡町に生まれました。海軍軍医として脚気対策に取り組み、食事と脚気の関係に注目して海軍の食事改善を進めました。後のビタミン研究へつながる日本医学史上の大きな足跡です。

高木は1881年、東京・京橋鎗屋町11番地、現在の銀座4丁目4-1に成医会講習所を開きました。これが現在の東京慈恵会医科大学へつながる医学教育の源流です。大学は現在、西新橋3丁目に本拠を置き、高木自身は青山霊園に眠ります。銀座の「東京慈恵会医科大学発祥之地」から西新橋の大学、青山霊園まで歩けば、一人の宮崎出身医師が東京に残した教育・医療の系譜を地図上でたどれます。日本の医学教育の大きな流れは日本の医学・病院の歴史と系譜、東京慈恵会を含む病院運営の歴史は医療法人と病院グループの歴史もあわせてご覧ください。
文学の東京に残る宮崎
若山牧水は1885年、現在の日向市東郷町に生まれました。早稲田大学への進学を機に上京し、文京区内では12年間に6か所の住まいを移っています。目白台、本郷、大塚、湯島、春日へと居を移した足跡には、一か所に定住するより、文学仲間や仕事、生活の変化に応じて東京を動いた歌人の姿が表れます。
牧水にとって東京は、故郷の日向や旅先と対照をなす生活の場所でした。文京区に残る旧居跡をたどると、大学生活、創作、結婚後の暮らしが、現在の住宅街や坂道の中に重なります。宮崎で生まれた歌人の人生に、東京で過ごした長い時間が組み込まれていたことがよく分かります。
上京した宮崎県人たちの結びつき
明治になると、宮崎と東京を結ぶ主役は藩から個人へ移りました。官界、軍、医学、教育、実業へ進む人が増え、東京には郷里を同じくする人々のつながりが生まれます。その象徴が在京宮崎県人会です。
在京宮崎県人会の公式沿革では、1906年1月、上野精養軒で開かれた小村寿太郎の歓迎慰労会が県人会の始まりとされています。ポーツマス条約をまとめて帰国した飫肥出身の外交官を囲む席が、首都圏に暮らす宮崎県人の継続的な交流組織へ発展しました。
東京はそれ以前から、宮崎県の行政上の運命にも関わる場所でした。鹿児島県に統合されていた宮崎の分県・再置を求める運動では、川越進らが上京し、政府への請願を進めました。宮崎から東京へ出た人々は、中央政府への働きかけでも、生活上の相互扶助でも、首都にネットワークを作っていきました。
戦後の上京を支えた宮崎県東京ビル
戦後、そのネットワークに具体的な建物が加わります。宮崎県は1950年、現在の千代田区九段南4丁目の土地を東京事務所用地として取得し、1956年に初代の宮崎県東京ビルを完成させました。建物には県の東京拠点だけでなく学生寮が入り、宮崎から東京へ進学する学生の生活を支えました。
施設は建て替えられ、1972年に2代目の宮崎県東京ビルが完成します。学生寮と職員住宅、東京での県政活動の拠点という複数の役割を担い、戦後の進学や就職で上京する人々にとって「東京にある宮崎県の場所」として機能しました。老朽化を受けて再整備が進み、学生寮は2023年から一時休止しています。
2026年に生まれる新しい拠点「hinataba」
再整備中の宮崎県東京ビルには、首都圏交流拠点「hinataba(ひなたば)」が2026年10月21日に開設される予定です。宮崎県が2026年9月3日に公表した案内では、1階に交流スペースを設け、宮崎県出身者や宮崎にゆかりのある人、大学生などの若者を対象にした交流イベントを開くほか、イベントのない時間帯は無料のコワーキングスペースとして利用できる計画です。
江戸の藩邸は藩の政務のために置かれ、明治の私塾や病院は学問と仕事のために人を集め、県人会と学生寮は上京者を結びました。hinatabaは、その長い流れの先で、出身地だけに限らない「宮崎との縁」を東京でつなぐ新しい場所になります。
東京で訪ねたい宮崎ゆかりスポット一覧
| 場所 | 宮崎との関係 | 現在の見どころ |
|---|---|---|
| 延岡藩上屋敷跡付近 | 延岡藩の江戸上屋敷 | 霞が関3丁目付近。官庁街に江戸の大名屋敷地を重ねられる |
| 飫肥藩上屋敷跡付近 | 飫肥藩伊東家の江戸上屋敷 | 内幸町2丁目付近。日比谷・霞が関とあわせて歩ける |
| 佐土原藩上屋敷跡付近 | 佐土原藩の江戸上屋敷 | 三田2丁目付近。高台と坂の多い旧大名屋敷地 |
| 高鍋藩上屋敷跡付近 | 高鍋藩秋月家の江戸上屋敷、上杉鷹山の出生地 | 元麻布2丁目付近。麻布の古地図散歩と相性がよい |
| 東禅寺 | 飫肥藩伊東家ゆかりの寺、幕末の英国公使館 | 港区高輪。寺院建築と幕末外交の舞台を同時に見られる |
| 霊南坂 | 飫肥出身の嶺南崇六に由来する地名 | 赤坂・虎ノ門エリア。坂名に宮崎とのつながりが残る |
| 海嶽楼跡 | 安井息軒の晩年の住居 | 半蔵門近く。息軒の江戸生活を示す解説板がある |
| 養源寺 | 安井息軒の墓所 | 文京区千駄木5-38-3。東京に残る息軒ゆかりの中心地 |
| 青山霊園 | 小村寿太郎、高木兼寛ら宮崎ゆかりの人物の墓所 | 南青山。近代史の人物を歩いてたどれる都立霊園 |
| 東京慈恵会医科大学発祥之地 | 高木兼寛が開いた成医会講習所の跡 | 中央区銀座4丁目4-1。現在は発祥地を示す碑がある |
| 上野精養軒 | 1906年の小村寿太郎歓迎慰労会、在京宮崎県人会の起点 | 上野公園内。宮崎県人の東京での結びつきを示す場所 |
| 宮崎県東京ビル | 1956年から東京事務所・学生寮などを置いた県の拠点 | 千代田区九段南4-8-2。再整備後はhinatabaが入る予定 |
江戸の藩邸から明治の学問・外交・医学、県人会、戦後の学生寮へ、宮崎と東京の関係は形を変えながら続いてきました。2026年のhinatabaが加わると、九段南にも新しい「東京の中の宮崎」が生まれます。古地図の上に消えた藩邸を探し、墓所や寺を訪ね、現代の交流拠点まで歩くと、二つの地域を行き来した人々の時間が東京の街に重なります。

