東京で三重県を探す|伊勢商人・松尾芭蕉・藤堂家・江戸川乱歩をたどる歴史散歩

歌川広重「名所江戸百景 する賀てふ」に描かれた日本橋駿河町

東京の地図に三重県の名を重ねると、意外な場所が次々と浮かびます。皇居の半蔵門には伊賀の記憶があり、神田和泉町の町名には津藩藤堂家の江戸屋敷が刻まれています。日本橋では松阪や四日市から出た商人が店を構え、深川には伊賀上野出身の松尾芭蕉が暮らしました。

明治以降もつながりは続きます。松浦武四郎は神田に晩年の書斎をつくり、久居出身の上野英三郎は東京帝国大学で農業土木を育てました。鳥羽の御木本幸吉は銀座から真珠を世界へ送り出し、名張に生まれた江戸川乱歩は池袋を終の住みかとしました。現在の日本橋には三重県の首都圏拠点・三重テラスがあります。

江戸城、日本橋、深川、銀座、池袋。東京を代表する街を歩くと、三重の歴史が都市の輪郭そのものに入り込んでいることがわかります。

半蔵門に残る伊賀の記憶

皇居西側の半蔵門はんぞうもんには、伊賀と江戸を結ぶ古い記憶があります。門名は、徳川家康に仕えた服部半蔵はっとりはんぞうと伊賀衆に由来すると伝えられています。

本能寺の変の直後、堺にいた家康が三河へ戻る「伊賀越え」で、服部半蔵正成は伊賀者とのつながりを生かして一行を助けました。家康の関東入国後、伊賀衆は江戸城西側の警備に関わり、半蔵門周辺にはその名が残りました。

現在の半蔵門は皇居の門で、一般の立ち入りはできません。内濠越しに門周辺を望むと、「伊賀」という地域名が東京の中心に残った経緯をたどれます。紀尾井町から半蔵門までの周辺史は、赤坂見附から半蔵門の歴史散歩でも詳しく紹介しています。

神田和泉町は津藩藤堂家の江戸屋敷から生まれた

秋葉原駅の東側にある神田和泉町かんだいずみちょうは、三重との関係が町名そのものに残る場所です。江戸時代、この一帯には津藩つはん・藤堂家の上屋敷がありました。

津藩祖の藤堂高虎とうどうたかとらは城づくりの名手として知られ、徳川家康に重用されました。藤堂家は代々「和泉守」を名乗ったため、明治5年(1872)に町名が整えられた際、この地は「和泉町」と呼ばれるようになりました。現在、千代田区の町名由来板が神田和泉町1番地に立ち、藤堂家上屋敷の記憶を伝えています。

藤堂家と東京の接点は上野にもあります。上野東照宮周辺は藤堂家下屋敷との関係が深く、江戸初期の上野整備を考えるうえでも重要です。藤堂家の墓所も上野に残り、通常は非公開です。街歩きでは、神田和泉町の町名由来板と上野東照宮を確認できます。

日本橋を変えた伊勢商人

江戸時代の日本橋には、伊勢商人いせしょうにんが相次いで進出しました。現在の三重県から江戸へ出た商人たちは、呉服、紙、鰹節、食品など幅広い商いを手がけ、その一部は今も同じ日本橋で企業や店舗として続いています。

三井高利と越後屋

松阪の商家に生まれた三井高利みついたかとしは、延宝元年(1673)、江戸本町一丁目に「三井越後屋呉服店」を開きました。天和3年(1683)には駿河町へ移転し、現在の日本橋三越本店につながる場所へ商いの中心を移します。

高利は「店前売り」や「現銀掛値なし」など、新しい販売方法を広げました。武家や富裕層との掛け売りが中心だった呉服商の世界で、店頭で現金販売する仕組みは幅広い客層を取り込みました。日本橋における三井の歴史は、江戸の商人町が近代の金融・商業中心地へ変わる流れにもつながります。三井本館と三井家の美術コレクションについては、三井記念美術館の解説で詳しく紹介しています。

小津和紙は1653年の創業地で続く

日本橋本町の小津和紙は、三重と東京のつながりを最も実感しやすい場所の一つです。承応2年(1653)、小津清左衛門長弘が伊勢松坂から江戸へ出て、大伝馬町に紙商を開きました。現在の小津本館ビルはその創業地に立っています。

3階の小津史料館では、江戸店の経営文書、松阪本店との往復書簡、千両箱などが公開されています。伊勢商人の歴史を「昔ここに店があった」という説明だけで終わらせず、当時の商売道具や文書まで見られる貴重な場所です。

にんべんと国分にも三重の商人史が残る

鰹節の「にんべん」を創業した初代髙津伊兵衛は、延宝7年(1679)に勢州四日市で生まれました。12歳で江戸へ上り、元禄12年(1699)に日本橋で鰹節と塩干類の商いを始めます。現在もにんべんは日本橋室町に拠点を置いています。

国分グループの起点も伊勢にあります。伊勢・松阪の南にある射和出身の四代國分勘兵衛が、1712年に江戸・日本橋で商売を始めました。三井、小津、にんべん、国分を一つの地域でたどると、日本橋の商業史に三重県域の人々が何層にも重なっていることがわかります。

日本橋そのものの都市史や魚河岸、五街道、近代建築まで歩くなら、日本橋歴史散歩ガイドもあわせて読むと街の構造がつかみやすくなります。

伊賀から江戸へ出た松尾芭蕉

松尾芭蕉まつおばしょうは寛永21年(1644)、伊賀上野に生まれました。若いころは藤堂家に仕えた藤堂良忠と俳諧を学び、のちに江戸へ出ます。江戸では日本橋周辺で活動したのち、延宝8年(1680)に深川へ移りました。

松尾芭蕉が山岸半残に送った1685年の書簡
松尾芭蕉「山岸半残宛書簡」1685年。The Metropolitan Museum of Art(Public Domain / Open Access)

深川の芭蕉庵では、静かな隅田川沿いの環境のなかで句作と門人との交流を重ねました。現在の江東区常盤には江東区芭蕉記念館があり、芭蕉関係資料を展示しています。分館屋上の芭蕉庵史跡展望庭園からは隅田川を望めます。

元禄2年(1689)、芭蕉は深川から『おくのほそ道』の旅へ出発しました。伊賀で生まれた俳人が江戸で文学者として成熟し、そこから東北・北陸へ旅立ったことになります。旅の全体像は、『奥の細道』要約|松尾芭蕉の旅と名句で詳しく紹介しています。

松浦武四郎の神田と「一畳敷」

幕末から明治にかけて活躍した松浦武四郎まつうらたけしろうは、現在の松阪市小野江町に生まれました。蝦夷地をたびたび踏査し、「北海道」の名付けに関わった人物として知られています。

1885年撮影の松浦武四郎
松浦武四郎、1885年撮影。松浦武四郎記念館所蔵/Wikimedia Commons(Public Domain)

武四郎は晩年、神田五軒町の自邸に「一畳敷」と呼ばれる小さな書斎をつくりました。全国各地の社寺や知人から集めた古材を組み合わせ、1886年に完成した一畳の空間です。武四郎は1888年、この神田の家で生涯を終えました。

一畳敷は現在、三鷹市の国際基督教大学・泰山荘に移築保存されています。見学は大学が設ける公開機会に限られます。武四郎の墓は染井霊園にあり、東京に残るもう一つの確かな足跡です。

久居出身の上野英三郎と、東大で再会するハチ公

上野英三郎うえのひでさぶろうは明治4年(1871)、現在の津市久居元町に生まれました。東京帝国大学で農業土木を研究し、日本初の農業工学講座の初代教授となった人物です。全国の耕地整理を指導し、多くの技術者を育成しました。

上野の名は、愛犬ハチとの物語でも東京に残っています。1925年に上野が大学で急逝した後、ハチは渋谷駅へ通い続け、やがて「忠犬ハチ公」として広く知られるようになりました。

東京大学農学部の弥生キャンパスには、2015年に「上野英三郎博士とハチ公像」が建立されました。渋谷駅前では主人を待つハチが一頭で表現されていますが、東大の像では上野とハチが再会し、互いに喜ぶ姿になっています。ハチ公を含む歴史に残る犬たちについては、偉犬・偉動物たちの物語でも紹介しています。

御木本幸吉は鳥羽から銀座へ進出した

鳥羽に生まれた御木本幸吉みきもとこうきちは、伊勢志摩で真珠養殖に取り組み、明治26年(1893)に養殖真珠をつくることに成功しました。明治32年(1899)には銀座に「御木本真珠店」を開きます。

銀座は当時、西洋文化と新しい消費文化が集まる東京の表舞台でした。御木本は海外の万国博覧会への出品や英文広告を通じ、真珠を日本発の宝飾品として世界へ広げていきます。現在もMIKIMOTOの本店は銀座4丁目にあります。

日本橋の伊勢商人が江戸の商業を支えたのに対し、御木本は明治の銀座を足場に三重の産業を国際市場へつなぎました。銀座四丁目の御木本幸吉ゆかりの場所は、銀座の歴史散歩でも歩いています。

名張生まれの江戸川乱歩が池袋に残した家

江戸川乱歩えどがわらんぽは明治27年(1894)、現在の名張市に生まれました。本名は平井太郎。『二銭銅貨』『D坂の殺人事件』『怪人二十面相』などを生み、日本の推理小説を代表する作家となります。

引っ越しの多かった乱歩が最後に落ち着いたのが池袋です。1934年に現在の立教大学池袋キャンパスに隣接する邸宅へ移り、1965年に亡くなるまで約30年間暮らしました。母屋、洋館、書庫として使われた土蔵などが保存されています。

旧江戸川乱歩邸は改修を経て、2025年5月に一般公開を再開しました。2026年現在は立教大学の大衆文化研究センターとして、乱歩の生涯や作品、暮らしに関する展示を見学できます。名張、鳥羽、池袋の乱歩顕彰施設をつなぐ取り組みも進み、三重と東京の文学交流は現在形で続いています。

県人会から三重テラスへ、東京の三重ネットワークは今も続く

近代以降、東京には三重県出身者の人的ネットワークも形づくられました。東京三重県人会とうきょうみえけんじんかいは現在も活動を続け、2026年2月には第71回県人会大会を開催しています。事務局は千代田区平河町の三重県東京事務所に置かれています。

そして2013年9月、日本橋に三重県の首都圏営業拠点「三重テラス」が開業しました。2026年9月には13周年を迎えています。物産販売だけでなく、歴史、文化、観光、地域交流を発信する拠点として使われています。

三重テラスがあるのは、三井、小津、にんべん、国分など三重県域から出た商人が江戸で商いを広げた日本橋です。江戸時代の伊勢商人が築いた人と物の流れの近くに、現代の三重県の拠点が置かれています。

東京で見られる三重県ゆかりの場所

場所三重との関係2026年現在見られるもの
半蔵門服部半蔵・伊賀衆皇居西側の門と濠
神田和泉町津藩藤堂家上屋敷町名由来板、町名そのもの
上野東照宮藤堂家下屋敷との関係社殿と上野公園周辺
日本橋三越・三井本館周辺松阪の三井高利と越後屋三越本店、三井本館、三井記念美術館
小津和紙・小津史料館伊勢松坂から出た小津清左衛門創業地、史料館、商売道具・古文書
にんべん日本橋本店周辺四日市出身の髙津伊兵衛日本橋室町の店舗・企業拠点
江東区芭蕉記念館伊賀上野出身の松尾芭蕉資料展示、芭蕉庵史跡展望庭園
国際基督教大学・泰山荘松浦武四郎の書斎「一畳敷」移築保存された一畳敷
東京大学農学部久居出身の上野英三郎上野英三郎博士とハチ公像
MIKIMOTO銀座4丁目本店鳥羽出身の御木本幸吉現在の銀座本店
旧江戸川乱歩邸名張生まれの江戸川乱歩母屋、洋館、土蔵、展示室
三重テラス三重県の首都圏営業拠点ショップ、交流・イベント空間

現地性の強さで選ぶなら、日本橋の小津和紙、神田和泉町、江東区芭蕉記念館、東京大学の上野博士とハチ公像、旧江戸川乱歩邸が特に歩きやすい場所です。泰山荘の一畳敷など公開機会が限られる施設は、公開日が設定されたときに訪問できます。

一日で歩くなら、日本橋を中心に組み立てる

三重と東京の関係を一日で歩くなら、日本橋が最も密度の高い地域です。三越前から小津和紙へ向かうだけでも、三井高利、小津清左衛門、髙津伊兵衛、國分勘兵衛という伊勢商人の系譜を数十分の徒歩圏でたどれます。最後を三重テラスにすると、江戸の商人ネットワークから現代の県拠点まで一本につながります。

別の日には半蔵門と神田和泉町で武家地の三重を、深川で芭蕉を、銀座で御木本を、池袋で乱歩を訪ねると、地域ごとに異なる東京の顔が見えてきます。三重県との関係は一つの街や一つの時代に集中せず、江戸城の警備、藩邸、商業、文学、大学、産業、県人社会へと広がりました。

参考文献・参考サイト