北区はなぜ「軍都」になった?十条・王子の軍用地跡と東京第一陸軍造兵廠を歩く

十条駅を出て中央公園へ向かうと、学校の脇に古いレンガ塀が残り、その先には赤レンガを取り込んだ北区立中央図書館、白い洋館風の中央公園文化センターが現れます。現在は穏やかな公共施設の一帯ですが、戦前の十条台には巨大な兵器工場、東京第一陸軍造兵廠りくぐんぞうへいしょうが広がっていました。

北区にあった軍事施設の面積は、戦前には区全体のほぼ1割に達し、その割合は東京23区で最も高いものでした。十条・王子だけでなく、赤羽・西が丘・桐ケ丘・滝野川にも軍施設が連なり、北区が「軍都」と呼ばれた背景になりました。

北区はなぜ「軍都」と呼ばれたのか

北区には、火薬や兵器をつくる工場、軍服や軍靴を扱う施設、橋や陣地を築く工兵隊などが集中していました。北区によれば、荒川の内側に位置し、水に恵まれ、鉄道などの交通条件が良かったことが軍用地の集積につながりました。

軍都化が急速に進んだ契機の一つが、1904年(明治37年)に始まった日露戦争です。弾丸不足を受けて生産力の拡大が求められ、1905年(明治38年)初冬には東京砲兵工廠銃包製造所が小石川から十条台へ移転しました。のちに組織や名称を変え、第二次世界大戦期には東京第一陸軍造兵廠となります。

戦時期の東京第一陸軍造兵廠は約33万平方メートルの敷地を持ち、大規模な赤レンガ建築が50棟以上並ぶ工場群でした。現在の十条駐屯地だけでなく、中央公園、中央図書館、周辺の学校などまで含む広さです。

板橋の火薬製造所から十条へ続く軍需工業地帯

北区の軍都史を前史からたどるうえで、十条の西にある板橋区加賀も重要です。ここには1876年(明治9年)に発足した陸軍板橋火薬製造所りくぐんいたばしかやくせいぞうしょがありました。官営火薬工場として日本最古の部類に属し、火薬の製造・研究・性能試験を担った施設です。

加賀公園周辺には、弾薬の性能を実射して調べた弾道管、射垜しゃだと呼ばれる標的、土塁、軌道敷きなどが残っています。2025年末の調査では、失われたと考えられていた射垜を含む2基の残存が確認されました。板橋区では国史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」として保存・整備が進められています。

近くの東京家政大学構内には、旧東京第二陸軍造兵廠の建物3棟が残ります。現在の21号棟・22号棟・58号棟で、いずれも板橋区登録有形文化財です。板橋側の歴史は、「石神井川を中板橋から王子まで歩く|板橋・加賀・音無川の歴史散歩」でも詳しく紹介しています。

3枚の地図で見る十条の変化

現在の地図では、十条駐屯地、中央公園、中央図書館がそれぞれ独立した施設に見えます。戦前の地図と重ねると、これらが同じ軍需工場の敷地だったことが分かります。

現在の東京都北区十条周辺の地図
東京都北区十条エリア(現代)

戦前の地図では、現在の公共施設がある場所に軍用地がまとまって広がっています。街区の境界や道路の形と照らすと、現在の街に旧軍用地の輪郭が残っていることも分かります。

戦前の東京都北区十条周辺の地図
東京都北区十条エリア(戦前)

敗戦後、軍用地は連合国軍の管理下に置かれました。その後、返還された土地は自衛隊施設、公園、学校、図書館、病院、住宅などへ転用されます。戦後の航空写真は、軍都から現在の街へ移り変わる途中の姿を伝えています。

戦後の十条・王子周辺の航空写真
戦後の航空写真。上の2枚とは縮尺が異なり、王子駅東側の旧軍用地まで確認できます。

東京の古地図の見方は、「東京の古地図まるわかりガイド」でも紹介しています。

十条に残る東京第一陸軍造兵廠の痕跡

十条富士見中学校のレンガ塀

十条富士見中学校の埼京線側には、東京第一陸軍造兵廠りくぐんぞうへいしょうの敷地境界だったレンガ塀が保存されています。日露戦争中の弾丸増産を背景に十条台へ工場が広がった時代の境界線です。

レンガの一部には葛飾区の金町煉瓦製造所の刻印が確認されています。塀そのものが、軍需工場の規模だけでなく、東京周辺のレンガ産業とのつながりも伝えています。Googleマップで場所を見る

十条駐屯地の旧254号棟

自衛隊十条駐屯地の公開緑地にある旧254号棟は、1918年(大正7年)に変圧所として建てられた建物の一部を利用した保存物です。北面には白い碍子がいしが残り、大量の電力を必要とした工場設備の面影を伝えています。

戦後、この一帯は連合国軍に接収され、1959年(昭和34年)に自衛隊へ移管されました。現在の駐屯地は約11万6,000平方メートルで、戦時期の造兵廠全体約33万平方メートルと比べると、旧工場がどれほど広かったかが分かります。Googleマップで場所を見る

北区立中央図書館・旧275号棟

北区立中央図書館の赤レンガ部分は、1919年(大正8年)に建てられた旧275号棟です。弾丸製造に使われた工場棟を保存・活用し、2008年(平成20年)に現在の中央図書館が開館しました。

レンガの刻印や色の違い、積み方、八幡製鉄所でつくられた部材など、建物自体が工場時代の資料になっています。2022年度には東京都選定歴史的建造物に選定されました。館内の「北区の部屋」には、旧軍関係施設や造兵廠で働いた人々に関する地域資料も集められています。Googleマップで場所を見る

東京都選定歴史的建造物の制度と、都内で見られる建築についてはこちらの記事でも紹介しています。

中央公園文化センター・旧本部事務所

中央公園の白い建物は、1930年(昭和5年)に陸軍造兵廠火工廠かこうしょうの本部事務所として建てられました。戦後はアメリカ軍施設となり、白く塗装された建物は1971年(昭和46年)の用地返還まで使用されました。現在は中央公園文化センターとなり、中央図書館とともに東京都選定歴史的建造物に選ばれています。

建物の横には、東京砲兵工廠時代に導入されたボイラーと煙突の一部が屋外展示されています。煙突は1905年(明治38年)竣工の東京芝浦製作所製、ボイラーはイギリス製です。兵器生産を支えた動力設備まで現地に残る、十条ならではの見どころです。Googleマップで場所を見る

滝野川・王子へ続いた軍用貨物線

十条台の工場群は周辺の軍施設と孤立していたのではなく、軍用貨物線でも結ばれていました。北区によれば、豊島地域から延びた貨物線は十条台の東京第一陸軍造兵廠りくぐんぞうへいしょうに入り、さらに滝野川工場へ続いていました。

憲兵詰所と伝えられる建物

滝野川工場の入口付近には、憲兵の詰所と伝えられる小さな建物があります。北区も「憲兵の詰所」として紹介していますが、用途には諸説があります。軍用貨物線を通る人や物資を監視した場所として伝えられ、工場と輸送路が一体だった時代を想像させます。Googleマップで場所を見る

四本木稲荷神社と軍用地境界標

滝野川の四本木しほんぎ稲荷神社は、東京第一陸軍造兵廠滝野川工場の構内社に関わる神社です。工場で働く人々の安全祈願と結びつき、軍需工場を「建物」だけでなく「人が働いた場所」として伝える史跡です。

滝野川三丁目公園には軍用地の境界標が3本集められ、そのうち2本に「陸軍用地」の文字が残ります。現在の住宅地や公共施設の中では見えにくくなった旧軍用地の境界を、具体的に示す資料です。Googleマップで場所を見る

敗戦後、軍用地は公共施設の街へ変わった

1945年の敗戦後、北区の旧軍用地は連合国軍の管理下に入りました。十条の造兵廠跡では、アメリカ軍の極東地図局や王子野戦病院などに使われた土地もあります。返還後は、自衛隊施設、中央公園、中央図書館、学校、病院、住宅へと用途が変わりました。

十条で興味深いのは、軍事施設が完全に消えたのではなく、レンガ塀、変圧所の一部、工場棟、本部事務所、ボイラー、煙突、境界標などが別々の形で残ったことです。現在の公共施設を順に歩くと、巨大な工場群の輪郭が少しずつつながります。

北区の近代工業史をさらにさかのぼるなら、「滝野川反射炉とは?王子分水・小栗上野介・錐台をたどる北区歴史散歩」もあわせて読むと、王子・滝野川が軍需・工業地域へ展開していく前史がつかみやすくなります。

赤羽・西が丘にも広がっていた北区の軍用地

北区の軍用地は赤羽台・西が丘・桐ケ丘にも広がり、工兵隊、被服関係施設、兵器補給施設、射撃場などが置かれました。軍用貨物線の跡を利用した赤羽緑道公園など、現在の街路や公園にも痕跡が残っています。

赤羽側の軍用地跡は、関連記事「赤羽台・西が丘の軍用地跡を歩く|軍用貨物線と旧陸軍施設の痕跡」で、十条とは分けて紹介しています。

散策ルート

十条から王子へ歩くなら、旧軍用地の規模と戦後の転用を連続して追える順路です。

  1. 十条富士見中学校のレンガ塀
  2. 十条駐屯地・旧254号棟
  3. 北区立中央図書館・旧275号棟
  4. 中央公園文化センター・旧本部事務所
  5. 憲兵詰所と伝えられる建物
  6. 軍用地境界標
  7. 王子駅

イベントで歩いたように板橋側から始める場合は、国史跡「陸軍板橋火薬製造所跡」の弾道管・射垜しゃだ・軌道敷きと、東京家政大学の旧東京第二陸軍造兵廠建物群を見てから十条へ向かうと、火薬製造から兵器生産へつながる地域の広がりを実感できます。

  1. 弾道検査管の標的付近
  2. 電気軌道線路敷跡
  3. 旧発射場射垜
  4. 旧東京第二陸軍造兵廠建物・21号棟
  5. 旧東京第二陸軍造兵廠建物・22号棟
  6. 旧東京第二陸軍造兵廠建物・58号棟

参考資料